蒼天の雲~64~
夜になり、尊毅軍がどうやら敗走し始めたと知っても、樹弘は追撃を命じなかった。もはや勝利が確定した以上、将兵を損失する危険を冒す必要はないと判断してのことであった。
「まずは勝利、祝着に存じます。そして、ありがとうございます。この御恩に相応しい礼の言葉が思いつかないほどです」
樹弘の本陣を訪ねた斎治は、額づいて最高の礼法をもって樹弘に謝意を表した。
「止してください、斎公。同じ国主同士ですから」
樹弘は斎治の手を取って立たせた。
「しかし……」
「斎公、僕は先代の翼公と静公のおかげで泉国の国主となれました。お二人がどういうつもりで僕に協力してくれたかは分かりませんが、そうすることも中原国家の国主の務めであるとするならば、僕は国主の責務を果たしたまでです。ですから、いずれどこかの国が苦境に陥ったら、今度は斎公が助けてやってください」
「そうであるかもしれませんな。しかし、すでに泉公が中原の諸問題を次々と解決されました。私が生きているうちは出番がないかもしれませんな」
斎治は僅かに笑った。樹弘は斎治の笑顔を始めて見た気がした。
「しかし、むざむざ尊毅を逃がしてしまいました」
比無忌は悔しそうに呟いた。尊毅軍が敗走し始めたと知ると、比無忌は追撃を樹弘に申し出た。樹弘は、夜になることを理由にこれを退けていた。
「焦ることはありません、比丞相。先代静公の敵を討つことは、何も尊毅の首を挙げることだけではありますまい。先代が成そうとした斎治殿の復位こそ、何よりもの弔いではありませんか?」
「泉公の仰る通りかもしれませんが……」
「いや、お気持ちも分かります。僕も先代静公には御恩があり、その命を奪った尊毅を憎く思っています。どちらにしろ尊毅の行方は追いますが、単なる復讐心を捨てて事に当たってください」
すでに樹弘は、尊毅を捕らえた場合の処遇について、斎治に任せようと考えていた。中原全体を巻き込んだ騒動になったとはいえ、元は斎国の内乱である。尊毅の処分は斎国内で行われるのが筋であろうというのが樹弘の考えであった。
『尤も、尊毅は生きて捕らわれることを望むまい……』
どちらにしろ斎国のことはこれで片が付く。樹弘にとって問題なのは、義王がすでにこの世にいない。このことをどのように扱うかであった。
「皆さんはご承知のことと思いますが、界公の家宰、賈潔がすでに義王がこの世にいないと言っていました。僕は斎治殿を斎国に送り届ければ、界畿に寄ってこのことを調査したいと思っています」
いかがなものでしょう、と樹弘は話題を変えた。
「勿論、その必要はあると思います。結局、先は義央宮を調査する時間がありませんでしたから、家宰の言葉を鵜呑みにしたままというわけにはいかないでしょう」
章季の発言に、斎治と比無忌も頷いた。
「正式には慶師に到着してから龍公達と協議してからになるけど、僕と印公は界畿の調査を行う。比丞相はお手数だが、しばらくは慶師に残り治安の維持と尊毅の探索をお願いしたい」
よしなに、と比無忌は幾分か顔を明るくした。その隣で章季がくすくすと笑っていた。
「何かおかしなことでも言いましたか?」
「いえ、泉公こそがやはり覇者に相応しいのだと思ったんです。姉さんは、泉公の気宇は泉国だけではなく、中原そのものを覆うと思っていたようです。そのことが今になってようやく私にも理解できたのです」
「僕が覇者ねぇ……」
後世の歴史家は、樹弘が尊毅討伐を各国に呼びかけた時点で、すでに覇者となっていたと記す者もいる。事実としてこれ以後、樹弘は覇者としての振る舞いを続けていくことになるのだが、一度たりとも自分が覇者であると公言したことも、覇者であると認識したこともなかった。
「僕は覇者なんかじゃないよ。そうだな、僕はこの中原の蒼空に浮かぶ雲であればいいと思っている」
今は夜だけどね、と樹弘が続けると、座に笑いが生じた。
「澄んだ蒼空はとても綺麗だ。でも、ぎらぎらと照りつける太陽を遮るものがなければ、仰ぎ見ることができない。その時に一朶の雲があれば、蒼空を見ることができるし、涼を得ることもできる。僕は中原の人々にとってそういう存在になれればいいと思っている」
過去の中原にどのような覇者がいたのか。樹弘は景蒼葉に習って中原の歴史を学んだが、覇者についてはあまり興味がなかった。歴史家が中原のまとめ役を便宜上そのように呼んでいる程度の認識しかなかった。
「さて、夜も更けてきましたから、これで散会としましょう」
樹弘が促し、座はお開きとなった。明後日には慶師に到着することとなる。




