蒼天の雲~60~
慶師に帰り着いた尊毅は街の様子を見て愕然とした。慶師の辻々には兵士が満ちているが、そこで暮らしている民衆の姿がほとんど見えなくなっていたのだ。
「どういうことだ?民衆がおらぬではないか?」
尊毅は斎慶宮で待っていた項史直に聞いた。尊毅の計画では慶師に住んでいる若者を兵士に仕立て、泉公との決戦に用いるつもりであった。
「多くの民衆が逃げたようです。慶師が戦火に巻き込まれると……」
項史直はやつれた顔で言った。弟である項泰の死に直面した彼にかつての精気はなかった。
「逃げた?そういえば、赤崔心はどうした?佐導甫は戻っていないのか?」
「赤将軍は敗北してから行方知れず、佐将軍も私には分かりかねます」
「ふん……。俺とお前だけになってしまったな。まだ慕ってくれる兵士はいるらしいが、ここに夏燐もいなければ、項泰もいないとはな」
まだ条公の臣であった時のことが懐かしく思えてきた。
「俺は尊家に伝わる置き文を信じ、国主となった。しかし、国主らしいことなど何一つする時間がなかった。今にして思えば、条公の臣であった頃が一番楽しく、輝きに満ちていたと思う」
「過去はどんな過去であっても懐かしいものです。ですが、今の私達は眼前の問題を処理しなければならないのです」
「……そうだな。国内はどうなっている?」
「夏燐様と少洪覇が夷西藩を出て慶師を窺っています。その他にも不穏な動きを見せる藩主もおります。それだけではありません。龍国、極国、翼国の連合軍が国境を侵そうとしています」
国境警備兵からの連絡では、龍公を大将とした三国連合軍が斎国と翼国の国境線近くに集結しているらしい。そこから斎国に突入してくるのは明白であった。
「泉公はすでにこっちに向かっているぞ。はは、八方ふさがりとはまさしく今の俺のことだな」
尊毅は乾いた笑いをした。無理にでも笑わなければ、絶望的な状況に精神がどうにかなってしまいそうであった。
「俺はどうすべきかな?」
「戦うほかありますまい。まだ主上を慕う将兵が一万、二万はおります」
「二万か……」
泉公の号令によって動いた諸国の連合軍の総兵数がどれほどになるか想像もつかなかった。
「史直、お前も俺についてきてくれるのだな?」
「勿論でございます。今でこそ過分な地位を得ておりますが、私の本分は尊家の家宰でございます」
慶師に残っている約二万の将兵達も同じ気分でいくてれるのだろう。それだけでも国主として、尊家の棟梁としての面目が保たれているような気がした。
「明後日には出撃できるように」
「承知いたしましたが、公妃様と太子はいかがなさいますか?」
項史直が家宰らしいことを聞いた。尊毅は家族のことなどすっかりと忘却していた。
「慶師においていく。泉公は仁者だという。俺が負けたとしても女子供には手をかけまい。警備の兵だけを残して置け」
尊毅は家族には会うまいと思った。それよりも尊毅には会わねばならぬ人物がいた。
出撃の前夜、尊毅は斎慶宮の奥に軟禁している界公―界仲に会った。
「明日、泉公を迎え撃つために出撃する。おそらくは今生の別れとなろう」
尊毅は自ら瓶を持ち、酒を注いだ杯を界仲に差し出した。不思議そうにしていた界仲であったが、杯を受け取り舐めるように酒を飲んだ。
「今生の別れとは物騒なことだ」
「負けるつもりはない。覚悟を言ったまでだ」
「ふん。では、次に酒を酌み交わすのは泉公に勝った後ということかな?」
「そんなことよりも家宰の賈潔を界畿に残しておられましたな。どういうおつもりで?」
尊毅は乾いた界仲の杯に酒を注いだ。界仲はぴくりと眉を動かした。
「さてさて、どういうことか?」
「とぼけなさるな。すでに調べはついている。賈潔を残したのは、界畿に来る泉公と接触させるためであろう」
「それは誤解だ、と言っても信じぬだろうな」
「誤解?ふん!今度は俺を捨てて泉公と組むか?界公とはとんだ寄生虫だな!」
「寄生虫とは無礼な!」
「無礼!事実であろう。義王の権威に寄生し、義王がおらぬようになってもその権威にしがみつく。寄生虫以外の何ものであろうか」
虫は駆除されるべきだ、という声が引き金になったかのように、界仲の喉が急に熱くなった。
「貴様……酒に盛ったな……」
界仲は枯れた息をすると喀血した。杯を落とし、そのまま倒れた。
「私を殺したとして……今更無意味であろう」
さらに吐血した界仲は恨めしそうな視線を投げかけた。
「無意味?そうだな、貴様が気に食わないだけだ」
完全にこと切れていた界仲には尊毅の言葉は届かなかった。




