蒼天の雲~55~
「泉公がもう来たのか!」
報告を受けた尊毅は信じられぬとばかりに声をあげた。
「見間違いではないのか?」
大将軍たる佐導甫も驚きを隠さなかった。斥候兵は間違いございませんと念を押した。
斥候兵がみた泉国軍とは旧伯国に駐屯していた李志望の軍団であった。樹弘は尊毅討伐を命じると、甲朱関が進言した。
「旧伯にいる李志望に軍を進めるようにご命令ください。吉野を囲もうとして尊毅への牽制となるでしょうし、少しでも比無忌の助けとなりましょう」
頷いた樹弘は早馬で李志望に出撃を命じた。
「承知仕った」
かつて伯国の将軍として勇名を馳せた李志望は、長く旧伯国の領地において駐屯軍の司令官を務めていた。根っからの武人ながら将兵と民衆には温情をもって接し、敏達が去ってからの旧伯国領地を見事に治めていた。しかし、やはり武人なのである。他の将軍が活躍しているのを聞いては羨み、焦れていた。だから思わぬ出陣命令を受けて、李志望は奮い立った。
「今こそ主上のために働く時。旧伯軍の名に恥じぬ戦をするのだ」
勢い勇んだ李志望であったが、戦地に入ると冷静になった。泉国から本隊が来るのを待ちながらも、尊毅の耳目を引くように陽動を行い、時として斎国からの輜重を奪うような働きをした。
この陽動作戦がもたらした影響は大きかった。泉国軍が来援するのを承知しながらも、今更引くに引けない尊毅は、北方の備えとして佐導甫を大将にした部隊を派遣せねばならなくなり、その分だけ吉野への攻撃は緩やかになった。
泉国軍は文可達、相宗如を将軍にして約二万の兵で静国を目指した。劉六はまたもや軍師として出陣することになった。
実は今回の出陣に際し、迷いがあった。樹弘は前回同様強制するようなことはしなかった。劉六としては今や中原最強の泉国軍の進退を任せられていることに高揚感を抱いており、できれば参加したかった。しかし、公妃である樹朱麗の出産が間近と言うこともあり、泉春にいた方がいいのではないかという医者としての思いも存在していた。
劉六の逡巡に対し、参軍する決意を促してくれたのは僑秋であった。
「先生、どうぞ行ってください。公妃様のことは私にお任せください」
いつもは劉六が戦地に行くことにいい顔をしない僑秋が言ったので劉六はやや驚かされた。
「君のことだから、反対すると思っていたが……」
「先生の下で学ばせてもらって私も医者としての自信がつきましたから。それにお産でしたら、先生より上手いと思っています」
「確かにそうだ。よくよく考えたら、私の出番はないな」
自信に溢れている僑秋を見ていると、心配は無用だろう。心置きなく参軍できる。
「気を付けて行ってらっしゃいませ」
「うん。ああ、そうだ……」
劉六は少し躊躇いながら、じっと僑秋の顔を真っすぐに見据えた。
「あ、あの……先生?」
「君は伴侶を持つつもりはないか?」
「え、あの……私は……」
「私は医術における君の師だ。その師の立場からこんなことを言うのは本来であるならば憚られるのだが、君がよければ私の妻となってくれないか?」
劉六にとって僑秋は最初は弟子であった。弟子から助手となり、今では一人前の医者として支えてくれている。いつの間にか大きくなっていた僑秋の存在が単なる弟子ではなくなっていた。
「勿論、君にも都合があるだろう。よく考えて、断るのであれば……」
「断るだなんて、そんな……。先生、私、嬉しいです」
僑秋が劉六の手を取った。大粒の涙を流しながら、顔は嬉しそうであった。
「そうか……」
劉六も嬉しそうにはにかんだ。
「でも、ちょっと驚きました。先生はあまりそのような素振りをお見せになりませんし、私がお慕いしていましても、先生は私を弟子としてしか見ていないと思っていました」
「以前言ったはずだ。私だって男だよ。私の方こそ、いつの間にか君を弟子以上に思っていた。しかし、私は君の師である以上、そのような目で君を見てはいけないと己を律してきた」
劉六はぐっと僑秋の手を握り返した。これほど劉六の体温を僑秋が感じることは今までないことであった。
「考えが変わったのは主上と公妃に接してからだ。あのお二人の関係を見ていると、私も自分に正直にならないといけないと思ったんだ」
僑秋にも劉六の思いが分かる気がした。樹弘と樹朱麗は、単なる国主とその公妃以上の結びつきを感じた。だからと言ってかつての国主と丞相という関係だけではなく、男女の愛情のようなものも時として見せつけることを憚らなかった。きっとあの二人には余人には分からない深い結びつきがあるのだろう。羨ましく思うが、きっと僑秋と劉六にもそれがあるに違いない。なんだかんだ言って長い付き合いであるし、苦楽を共にしてきたのだ。
「先生、ご無事で」
「勿論だよ」
劉六は僑秋から手を離し、その手でそっと僑秋を抱きしめた。




