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七国春秋  作者: 弥生遼
蒼天の雲
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蒼天の雲~46~

 「まさかこんな単純な詐術にかかるとは、尊毅は国主になって腑抜けになったようだな」

 静国軍を指揮するのは静公本人であった。病というのは当然嘘であり、源慈に寝返ったふりをさせて尊毅軍を空の兵糧庫まで誘引させたのである。静公は兵糧庫近くに兵を伏せさせ、尊毅軍が来るのを待っていただけであった。

 「全軍突撃だ!悔しさに顔をゆがませている尊毅の顔を拝んで来い!」

 静公は突撃を命じた。静国軍の将兵達が声を上げ、我先にと尊毅軍に襲い掛かっていった。


 罠にはまったと察知した尊毅は全速力で逃げ出していた。もはや撤退の命令をなど出す暇もなく、単身身を翻していた。自軍がどうなろうと関係ない。そのようなことを気にしていたならば、尊毅自身の身も危うくなるだろう。そう判断して軍を捨てて単身逃げることを決意したのであった。

 付き従うのは副官を含めた近侍数名。彼らも自軍が壊滅しても尊毅だけは守らねばならぬと思い、尊毅のあとを追いかけてきた。

 「そろそろ橋が見えるはずだが……」

 周囲はすっかりと暗くなった。それに加えここは未知の地であり、今がどこにいるのかなど数日前に通過した朧気な記憶を頼りにするしかなかった。

 尊毅達はなんとか川縁まで来ることができた。しばらく付近をうろうろしていたが、橋など跡形もなかった。

 「落とされたのではないでしょうか?」

 副官の言葉にあり得ると尊毅は思った。ここまで周到に罠を仕掛けた静公である。敗走する敵のために橋を架けたままにしておくようなことはしないだろう。

 「渡河できる場所を探せ!」

 尊毅は命令したが、後方から喊声と馬の嘶きが聞こえてきた。

 「ええい!こうなればどこで死ぬのも同じだ!」

 尊毅は馬の尻を叩いた。馬は勢いよく駆け出し、尊毅を乗せたまま河に飛び込んだ。

 「主上!」

 最初は浅瀬であったが、次第に馬の脚が河底につかなくなった。馬は泳ぎ始めた。さほど流れが強い河ではないものの、気を抜けば流されそうになる。尊毅は馬の首に必死にしがみついた。

 『ここで流されて死ぬのなら俺もそこまでだ』

 尊毅はこの馬に己の命運を賭けることにした。もしここで死ねば大それた野心を抱いた自分が愚かであっただけのことだ。そう思いなおすと、馬にしがみつく腕にも力が入った。

 気が付けば馬は対岸に到着していた。尊毅は馬から下りてその場に座り込んだ。 

 「よくやってくれた。生きて帰れたら、お前のために牧草地をひとつくれてやろう」

 尊毅は馬の脚をなでた。そこへ同じく河を渡ってきた近侍達が追いついてきた。

 「主上、無茶をなさいます」

 「その無茶のおかげで助かったのだ。しかしずぶ濡れだ。体を温めないとな……」

 近侍達が尊毅の言葉を聞いて薪を集めてこようと動き出した時であった。北方の彼方から地響きが聞こえた。目を転じると『静』の文字を染め抜いた軍旗が群れで動いているのが見えた。

 「主上!」

 「ちっ!」

 体を温めている場合ではなかった。馬に飛び乗ると、とにかく軍旗が見える方向と反対側へと駆け出した。

 それから数日は尊毅にとって人生で最も苦しい日々であった。日が昇っている間はひたすら西を目指し、夜は人目をはばかって野宿した。夜寝る時は天幕どころか寝袋もなく、地面に転がるしかなく、衣服も食料もままならぬ状態であった。それで尊毅は決して悲観して自決するとうなこともなく、生への執念を見せ続けた。

 『俺がくたばるかよ!』

 三人の主君に背き、国主の座を手に入れた自分が敵地で惨めな姿をさらして死ぬわけにはいかなかった。もしそうなれば中原中の笑いものになる。尊毅は避けねばならぬと思い、生きる活力に変えていた。

 そして界国との国境近くまで到達すると、ようやく尊毅は項史直と合流できたのだった。

 「主上!なんというお姿を……」

 「お前もな」

 項史直も傷だらけの鎧姿であった。だが、尊毅よりましなのにそれなりの将兵を引き連れているということであった。

 「丞相の比無忌の軍勢と遭遇し、一戦しましたが敗れました。これほどの大敗を味わうのは初めてです」

 項史直は無念さをにじませていた。

 「俺もだ。しかし、こうして生き延びれた。復讐再戦の機会はいくらでもある」

 「主上がそのお気持ちならば我らにはまだ未来がありましょう。急ぎ斎国に戻りましょう」

 「いや、その前に界国に向かう。この敗北で義王と界公が日和ってしまっては意味がない。寧ろ界公を仲介させて静公と和睦する」

 この時、尊毅の脳裏にはある陰謀が浮かんでいた。この陰謀が成功すれば、極めて困難な状況を脱することができるであろう。

 しかし、斎国では尊毅の基盤を揺るがしかねない事態が発生していた。まだ尊毅の知らぬことであったが、謀臣である項泰が戦死したのである。

 

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