蒼天の雲~43~
賈潔を送り出した尊毅は、夜になると全将兵に酒を振舞った。
「今に義王より静公と斎治討伐の勅命がくだる。戦を前にして皆で英気を養ってくれ」
尊毅はそう言って国主として、斎国軍の大将として器の大きいところを見せた。将兵達は義王と界公を武力をもって囲むという暴挙に一抹の不安を感じていたが、尊毅の余裕ある態度に半ば安心した。しかし、当の尊毅は気が気でなかった。
『さっさと俺のことを認めろ』
ろくな兵力を持たない義王と界公は尊毅の言うことを飲むしかないだろう。だが、万が一にも尊毅の要求を拒否し、界畿に籠るようなことがあれば、尊毅は界畿を攻めるしかない。そうなれば間違いなく中原中の諸国を相手しなければならなくなり、今度は尊毅が慶師に籠らなければならなくなる。佐導甫に危険を指摘された時は鷹揚に応じた尊毅も、実際に界畿を囲んでみると、流石に平静ではいられなかった。
深夜になっても界公からの返答はない。尊毅は天幕において寝台にも入らず、じっと待ち続けていた。明け方近くになり、同じく寝ずの番で待っていた項史直が天幕にやってきた。
「賈潔が帰って来たようです」
尊毅はすぐ呼ぶように言うと、やや憔悴した様子の賈潔が天幕に入ってきた。
「界公におかれましては尊毅殿を斎国の国主として認めることを義王に奏上致しました。義王はすぐにそれをお認めになりました。尊毅殿は晴れて斎公となられました」
賈潔は感情を押し殺した声で告げた。尊毅は喜びに打ち震えそうになったが、それを我慢しながら冷徹な声で言った。
「謹んでお受けいたします。では、斎治が偽りの国主であることを認め、それを俺が討伐することもお認めになるということですかね」
「尊毅殿を国主として認めたとなればそうなりましょう」
賈潔は実に遠回しに言い方をした。おそらく義王と界公は、斎治の求めに応じて会盟を開催しただけに、明確に斎治を討てということを尊毅に言えないのだろう。口約束だけでは後で知らぬ存ぜぬ、尊毅に脅されただけだ、と主張し、今度は尊毅を討てと言い出すかもしれない。
『そうはいくか!』
馬鹿にされたと感じた尊毅は、その怒りも我慢した。
「では、以上のことを勅諚とし、印璽をいただきたい。界公の家宰殿の口上を信じぬわけではないが、その舌の根が乾かぬうちに静公にも勅諚を下されては敵わぬからな」
「そ、それは……」
「急がれよ。俺は自制をしているつもりだが、これから戦場に向かう将兵は気が荒い。長の対陣の憂さが爆発しないうちに色よい返事をいただきたい」
賈潔は苦々しく顔を歪め、再び界畿へと戻った。義王の印璽が押された勅諚を持ってきたのは、その日の夕方であった。尊毅としてはこれでよしと思ったが、項史直が囁いた。
「印璽は本物でありましょうが、所詮は紙きれです。いざとなれば何とでも言って言い逃れするかもしれません。一部兵力を置いていくべきかと愚考します」
それが最善ではあろう。しかし、静国との戦争を前に、わずかな戦力でも無駄にしたくなかった。
「お前の考えも理解できるが、今は静国の戦争が肝要だ。勝てさえずれば、義王も界公も文句なく俺に従うだろう」
尊毅は項史直の提案を蹴って、斎治と静公討伐の勅諚を貰い、意気揚々と東を目指した。
一連の尊毅軍の動きは静国に筒抜けとなっていた。界畿を包囲したことは予想外の行動であったが、いずれ攻めてくるであろうことは予期していたので、すでに迎撃する準備は整っていた。
「尊毅は界畿を囲んだことで私を討伐せよという勅許を得たのかもしれない。どうされるのですか?」
討伐の対象となっていた斎治は気が気でなかった。自分のために会盟を開催してくれた義王と界公が裏切り、よりにもよって尊毅の側に着いたのである。中原の歴史的な慣例で言えば、斎治と静公は正義の敵となったしまったのである。
「案ずる必要はありますまい。脅された出された勅許にどれほどの価値があるだろうか。同調する国主などいない」
恐れる必要はない、と静公は力強く言った。実際に静公は義王の勅許など畏れていないし、ましてや尊毅など歯牙にもかけていなかった。
「しかし……」
「尊毅は寄り道をしたがために我らに時間を与えてしまった。ふん、我が静国も随分と見くびられたものだ。完膚なきまでに叩き潰してやる」
静公の自信満々な態度が逆に斎治を不安にさせた。過度の自信が足元をすくわれる結果になることは斎治自身が経験したことであった。しかし、静公に掣肘することが今の斎治にはできるはずもなかった。




