蒼天の雲~38~
楽隋が広鳳に向けて惨めな敗走をしている頃、同じく広鳳を目指している軍勢があった。龍公と極公の部隊である。両公は示し合わせたうえですぐに軍勢を翼国に入れた。龍国は馬求を、極国は譜天を将軍にして合計で三千名の兵力となっていた。
二人の将軍は極国が用意した軍船に乗り込むと、翼国に上陸し、情報を収集した。その結果、楽隋軍がほぼ全軍をもって泉国軍討伐に出撃したことが判明した。
「如何しましょう、譜将軍」
かつての仇敵であったが、譜天は誰しもが認める戦争の天才である。馬求も進んで兄事していた。
「難しいことではない。広鳳が空同然なら、これを奪い取りましょう。そうなれば楽隋も帰る場所を失う」
馬求も同じようなことを考えていたので即座に頷いた。両軍は無人の荒野を行くようにして南下し、大した戦闘を行うことなく広鳳を占領してしまった。
楽隋軍を壊走させた樹弘は、追撃を田員と相宗如に任せ、自身は尾城という地に留まっていた。許斗にいる羽兄弟と連絡を取るためであった。
それと同時に行方不明になっている楽清を捜させた。楽隋を放逐したとしても、楽清がいなければ翼国の混乱が治まることはないであろう。
「あるいはすでに許斗で羽兄弟と合流しているかもしれない。今はじっくりと許斗からの連絡を待つとするか」
樹弘はすでに騒乱平定後のことを見据えていた。今の翼国は楽乗の徳が生きている。楽隋は奇襲的に反乱を成功させたが、楽隋自身に人望はない。楽清さえ広鳳に戻れば、すぐに混乱は治まると考えていた。
「主上、少しよろしいでしょうか?」
天幕で劉六、文可達と今後について協議していると、景弱が入ってきた。
「どうかした?」
「実は楽清様をお連れしたと申す者が陣中を訪れております」
劉六と文可達が息を潜めたのが分かった。
「景弱は楽清殿の顔を知っているな」
数年前、楽清がまだ太子であった時代に何かの使者として泉春を訪れたことがあった。その時に景弱は楽清の顔を見ているはずであった。
「はい。ご本人かと思われますが、連れてきた老人がどうにも風体が怪しくて……」
しかし悪人ではないと思います、と景弱はひどく曖昧なことを言った。いつも明瞭な受け答えをする景弱にいしては珍しいことであった。
「行こう」
樹弘は直接見に行くことにした。
天幕を出てしばらくあるくと老人と青年が立っていた。青年は間違いなく楽清であった。
「おお、楽清殿!ご無事で何よりでした」
「泉公!この度はご迷惑をおかけしました」
楽清は涙を流し、樹弘に対して拝手した。隣では老人が満足そうに笑みを湛えていた。
「貴方が楽清殿をここに?」
樹弘は老人を見た。白髪の老人は所々ほつれのある粗衣を纏い、長大な棒を手にしていた。確かに風体怪しいが、どことなく気品が感じ取れた。
『この人は高潔な人だ』
樹弘はそう感じた。そうでなければ老いて楽清を助け出すことなどしないだろう。
「左様です」
「できればお名前を窺いたいのですが」
「名乗るほどの者ではありません。以前、楽乗様にお世話になった者とだけ申しておきましょう」
樹弘は楽清を見た。楽清は首を横に振った。彼もまた老人の名前を知らないのだろう。
「そうですか。名乗りたくないのであれば構いませんが、貴方は翼国を救われた。ぜひとも今宵だけでも一献差し上げたいのですが、いかがでしょう」
「それも遠慮しておきましょう。私は今を生きる者ではありません。所詮は過去に生きる者です」
老人は眩しそうに樹弘を見ていた。実に満足そうで嬉しそうであった。
「泉公、貴方を見ていると楽乗様のことを思い出す。貴方からは英気と慈悲が滲み出ている。お会いできてよかった」
老人は役目を終えたとばかりに背を向けた。楽清は追いかけようとしたが、樹弘はそれを制した。
「あの方は現世に功利を求めていないようです。このまま好きに行かせるのが本当の恩返しですよ」
「そうかもしれませんね。あの者は自分のことを山野の魂魄の化身と言っていた。山霊として山野に帰るのでしょう」
楽清は去り行く老人に対して深く頭を下げた。樹弘はその楽清の姿を見て、翼国は良き国になると予感した。




