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七国春秋  作者: 弥生遼
蒼天の雲
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蒼天の雲~37~

 「敵襲!敵襲!」

 後方から聞こえてくる叫び声に烏道は体をびくつかせた。だが、冷静に考えてみると、泉国軍が楽隋軍の最後尾にある自軍をいきなり狙ってくるとは思えなかった。

 「匪賊か馬賊だろ。いちいち騒がずにあしらえ」

 命令とも言えぬ命令を出した烏道であったが、今度は自軍の側面から馬蹄が地を踏み鳴らす音と、兵士の喊声を聞くことになった。

 「敵襲!泉国軍です!」

 物見の兵士が言うまでもなく、烏道にも『泉』の一字が書かれた軍旗が見えた。

 「まさか、本隊はもう敗れたのか?」

 烏道の考えはひどく常識的であった。まさか後方にいる自分達がいの一番に狙われるなど思ってもいなかった。この時になって本隊との距離を開け過ぎたことを悔いた。

 「落ち着いて迎撃するんだ!」

 烏道は怒鳴りながら命令したが、遅きに逸した。落ち着けと命じた烏道が一番取り乱しており、具体的な指示などできるはずなく、瞬く間に烏道軍は田員軍に蹂躙された。一刻を待たずして、烏道軍は無残な敗走をする羽目になった。

 『泉国軍の強さとはこれほどものか……』

 烏道とてそれなりに戦場を踏んできた武人である。従う兵士達もそれなりに修羅場を潜ってきている者達である。その彼らがわずか一刻ももたず壊走させられるとは信じられなかった。烏道は後になってこの時のことをこう書き記している。

 『泉国軍は一兵卒に至るまで青銅もしくは鉄製の鎧を身に着けていて、剣や槍もおそらくは鋼で作られていただろう。なめし革や竹槍装備の我が軍が敵うはずがない』

 自軍の装備については表現は別として、泉国軍の装備についてはほぼ正確であった。樹弘の方針により、一兵卒にも青銅の鎧と鋼の剣もしくは槍を官給品として支給していた。装備に資金はかかるが、その分将兵の死傷率が劇的に下がり、結果として国軍の維持費を抑えることができていた。

 「敵が逃げたぞ、手筈通りに追え!」

 田員は東へと逃げていく敵軍を確認した。当初、烏道軍は南へと逃げようとしていたが、すでに田員軍の別動隊が回り込んでおり、やむを得ずという形で東に逃走を開始していた。しかし、それこそがまさに思う壺であった。


 烏道軍が敗走している頃、楽隋は泉国軍と会敵していた。こちらは奇襲を食らうことなく、斥候によって事前に敵の存在を察知し、陣を敷いて待ち受けていた。楽隋は斥候の報告から敵軍の全容を把握していた。

 「全軍で三千もいないだと。ふん、我らも舐められたものだ」

 楽隋は幾分か気が楽になった。烏道軍がおらずとも楽隋軍は一万近い軍勢である。普通に戦えば負けるはずがなかった。

 「かかれ!小生意気な泉公を我が国から叩き出せ!」

 楽隋はそう命令するだけで充分であると楽観していた。歩兵が隊列を成し、前へ前へと進んでいく勇姿を見て、広鳳に帰るのも間もなくであろうと思っていた。

 しかし、現実はあまりにも楽隋にとって過酷であった。勇ましい姿を見せていた歩兵部隊がその夜には無残な姿となって帰ってきたのである。しかもその数は半数近くまでに減らされていた。

 「どういうことか!」

 あれだけいた勇壮で、数も圧倒していた部隊はどこにいったのだろうか、楽隋は恐怖を感じるよりも先に不思議でならなかった。まるで狐につままれたような感じであった。

 「泉国軍は精強で、一兵卒に至るまで悪鬼羅刹のようでした」

 まるで歯が立ちません、と逃げ帰ってきた将の一人が泣きながら訴えた。その姿はまるで悪童に虐められて逃げ帰ってきた童のようであった。

 この時点で楽隋は退却を考え始めていた。夜陰に紛れての退却は同士討ちを招く惧れがあるので避けるべきではないかというところまでは冷静に思考することができた。だが、事態はそれほど悠長に進まなかった。田員軍によって敗走させられた烏道軍が楽隋軍に殺到してきたのである。

 「斎国の馬鹿将軍は負けたというのか!」

 負けたなら負けたで自国に帰ればいいのに、烏道軍は助けを求めるようにして敗走してきたのである。

 楽隋軍は恐慌状態になった。ただでさえ昼間に泉国軍に散々に敗れて意気消沈していたのに、後方の味方までもが敵の餌食になってしまったのである。こうなれば軍隊の秩序などなかった。楽隋軍の将兵も我先にと算を乱して逃げ始めたのである。

 「逃げるな!慌てふためくと敵の思うつぼだぞ」

 楽隋は多少の理性をもって叫んだが、一度奔流となった流れを変えることはできなかった。ここで惨劇が起きた。烏道軍と楽隋軍で同士討ちが始まったのである。

 敗走してきた烏道軍からすれば遠くに見える楽隋軍の松明は救いの灯であった。そちらに向かって殺到するのは無理のないことであった。また楽隋軍からしてみれば、敗走している烏道軍の将兵は亡者の群れのようであり、混乱の最中にあって敵と見間違ってもやむを得ないことであった。

 同士討ちであることが分かり、収束するまで半刻ほどかかった。この間、泉国軍の追撃はなかった。

 「ともかくも広鳳に籠って態勢を立て直す。それと尊毅に救援を求めよう。次はもうちょっとまともな将軍を寄こせとな」

 命からがら逃げることに成功した楽隋は臣下に息巻いたが、この直後、先回りしていた相宗如軍に襲われるのであった。

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