蒼天の雲~35~
翼国に入った泉国軍は、まずはかつての楽隋の拠点であった摂の邑に接近した。
「戦いになりましょうが、橋頭保が必要です。攻め取りましょう」
劉六の進言に樹弘は頷いた。しかし、摂を攻めるまでもなかった。向こうから進んで樹弘を迎えてくれたのである。樹弘の前に姿を見せた長老達に寄ると、羽兄弟が根回しをしてくれたらしい。
「そういうば羽兄弟は長らく摂に匿われていたと先代翼公が言っておられたな。人の徳というのは死してなお生きるらしい」
「左様でございます。羽綜様がいずれ泉公が救援に来るから、その時は進んで開城するようにと申されたのです」
羽綜は救援を依頼する使者を出すまでもなく樹弘が駆けつけてくると思っていたらしい。
「しかし、ここは楽隋の封土であったはずだ。その楽隋が国主になったことは摂にとっては喜ぶべきことではないのか?」
あまりにも簡単に摂が開城したので、樹弘は多少の警戒心をもって尋ねた。
「これは泉公らしくないお言葉でありましょう。先代の喪中に兵を挙げ、国主を追うような男を民衆が心服すると思われますか?」
「なるほど、これは失礼した。開城は喜んで受け入れよう」
樹弘は長老達に感謝しながらも、民衆の心情を考えて摂に入城するのは避けた。そこへ楽隋からの使者がやってきたのである。
「内政干渉ね。確かにそうかもしれないが、それを不正義というのなら、楽清殿を追って武力で国主の座を横取りした輩も不正義ではないか。不正義と不正義。どちらが本当に不正義か、戦場で決着すればいいではないか」
樹弘はあえて高圧的に使者に接した。すでに摂が泉国軍についたことを見せつけると供に、こちらの戦意を見せて楽隋の意気を挫くのが樹弘の狙いであった。
使者を追い返した樹弘は躊躇うことなく進軍した。泉国軍を遮る者はいなかった。
追い返された使者から事の仔細を聞いた楽隋は青ざめた。樹弘が本気であり、もはや戦が避けられないことに気づかされた。
「兵はどれほど集まったのか?」
「なんとか搔き集めて一万三千ほどは……」
そのように報告されて楽隋は一応安堵した。数の上では泉国軍をかろうじて上回る。それでもわずか三千名の差はどうにも心許なかった。
それでも楽隋は出陣しなければならなかった。泉国軍は広鳳に向けて驀進中であり、ここで出なければ、気が付いた時には泉国軍が広鳳の門前に到達しているだろう。
「泉国軍は精強と聞くが、数はこちらの方が上であり、敵は我が国の地理に不安なはずだ」
十分勝機はある。楽隋は自分にそう言い聞かせた。総大将がそのような調子であるから、楽隋軍の士気は極めて低く、雑軍という雰囲気を引きずったまま泉国軍を迎えることになった。
これら楽隋軍の動きは当たり前のように泉国軍に筒抜けとなっていた。翼国の地理についても摂の長老から周辺の地図を貰っているのでまるで苦にならなかった。
「楽隋が出てきましたか」
楽隋出撃の情報は樹弘の耳にも達していた。そのやや嬉しそうな表情からして樹弘も広鳳に籠城されることが避けられて安堵しているようであった。
「はい。諸将を集めてください」
すでに劉六の頭の中には楽隋軍を粉砕する戦略ができあがっていた。
樹弘のいる本陣に集まってきた文可達、田員、相宗如の各将軍を前に劉六は地図を広げて説明に入った。
「敵の数は約一万三千。その構成は楽隋の私兵と募兵した国軍、そして斎国軍です」
「ほう。斎国軍がいるのか」
声を上げたのは文可達であった。文可達は歴戦の勇将であったが、左将軍に就任してからは戦場に出る機会が少なかった。そのためか今回の出陣への意気込みはただなるものがあった。
「斎国軍の将は烏道という男です」
これが敵の左翼にあります、と劉六が地図に鉛筆で書き記すと、田員が質問をしてきた。
「軍師は烏道という男のことをご存じですか?」
「直接会ったことはたぶんありませんが、困難に直面すると付和雷同してきた男です。一軍の将として役には立たないでしょう」
そこを狙います、と劉六は烏道と書かれた文字にばつを書き入れた。烏道率いる斎国軍の位置は、敵軍の最も後ろにある。
「本隊は文将軍の指揮下におき、田将軍は速やかに立って北側から烏道率いる斎国軍を強襲してください。烏道は耐えきれず逃走し始めるでしょう。そうすれば敵の全軍が総崩れとなるので田将軍は構わず敵軍を分断してください。文将軍の本隊は敵軍崩壊と同時に前面に押し出します」
劉六が指し示す戦術に各将軍達は熱心に聞き入っていた。いずれも泉国軍では歴戦の勇将である。その彼らが反発することなく、新参者の劉六の言葉に傾聴しているというのは、ある意味で奇跡的であった。
劉六としては非常にありがたいことであったが、あまりにも不思議に思ったので後に相宗如に尋ねてみると、
「我が主上自身が奢ることなく、他者の意見に真摯に耳を傾けておられます。臣下がそれに倣わないわけがありません」
樹弘自身が謙虚に他者の意見を聞き、それを見て臣下も倣う。そのような国が発展しないわけがないと劉六は改めて感心させられた。




