蒼天の雲~5~
斎香がいる寓居は界畿の外れにあった。
厳侑という泉国の商人が所有している物件らしく、小さな平屋建ての家屋であったが、整備された庭があり、それなりに快適な生活を送っているようであった。
斎治達が訪ねると、出迎えたのは和交政であった。斎治が一時期流刑の身にあった時、流刑地からの脱出を助けてくれたのが和交政であり、尊毅との戦いで戦死した和芳喜の子息であった。
「主上、お久しぶりでございます」
和交政は比較的落ち着いた様子で頭を下げた。
「交政、久しいな。芳喜と長九にはすまぬことをした」
斎治は和交政に詫びた。和交政は、何も言わずに三人を中に通した。奥まった一室に通されると、斎香が布張りの寝椅子に腰を掛けて優雅に茶を飲んでいた。
「香。無事で何よりだ」
斎治は斎香の正面に座った。斎香は拝することもなく、湿り気のある視線を送り続けながら茶を飲み続けた。
「国でのことは知っておろう。余は尊毅の無道を義王に訴えに来た。そのためにもまずは界公に会わねばならん。お前は界公夫人と昵懇だと聞く。仲介をして欲しい」
斎治は単刀直入に切り出した。斎香は茶器を置くと、ひと息長い溜息をついた。
「お兄様は亡くなり、北定は失意のうちに去りました。和親子は討ち死にし、新莽は戦いの末に行方知れずで、少洪覇は自領に帰って気丈に戦っているでしょうか?」
斎香は遠い目をしていた。かなた遠くの故郷に思いをはせているようであった。
「それに引き換え国主とその娘は他国で生きている。果たして私達の存在とは何なのでしょうね、お父様」
斎香が慶師を逃げ出してきた斎治を非難しているのは明らかであった。斎香の賢明さは、その非難されるべき対象の中に自分を入れていることだった。しかし、単に斎公の娘でしかない斎香と、斎公である斎治とでは、果たすべき責任は段違いである。
「だからこそ界公に会って、尊毅の無道を解き、義王に正義の義軍を起こしてもらうのだ」
斎治にとって慶師を出たのは、決して逃げ出したということではない。尊毅と戦うために一時的に明け渡したに過ぎなかった。
「まぁ、それもひとつの手段でしょうね」
「香、何が言いたい!今の余にできるのはもはやそれしかないのだ」
仕方なかろう、と言うと、斎香は悲しそうに笑った。
「仕方がない。そうかもしれませんね。しかし、私は何故こうなってしまったのかを考えていたのです」
「余が間違っていたというのか?そうかもしれんが、尊毅の無道を許しておくことはできない。中原から正義が無くなってしまう」
「その正義は観念上の正義でしかありませんね。もし、お父様が言うような古式ゆかしき正義が今でもあるのなら、条家が二百年も繁栄しませんし、何よりもお父様の治世が脆くも崩壊するはずがありません」
手厳しい意見であった。その通りであると思うのだが、認めてしまえば斎治の立場はなくなってしまう。
「斎家が滅んでもいいということか?」
「それが宿命なら仕方ないかもしれませんわね」
斎香はそう言いながら、手元に紙と筆を引き寄せた。
「界公夫人へは紹介します。お父様にはお父様の理屈がありましょう。娘としてそのお手伝いぐらいは致しますわ」
斎香が紹介状を差し出すと、斎治はひったくる様にして受け取った。一瞬、何か言いたげに口を開きかけたが、結局は何も言わず去っていった。
「姫様、お気持ちは分かりますが、あれでは主上に対して無礼でありましょう」
斎治達が去ると、和交政が斎香を窘めた。斎香は少し怒ったような顔を向けてきた。
「無礼ね。それでお父様が発奮してくれればいいけど、何もかも他人だよりで、どこまで成し遂げられるか不安だわ」
斎香は辛辣であった。娘から見ても斎治は才気あふれ、艱難辛苦に立ち向かうだけの精神を持ち合わせていた。しかし、自ら事を起こし、自ら行動するという気力を欠いていた。これは貴人として生まれた斎治の最大の欠点と言っても良かった。困窮した立場ながらも、費兄弟や北定など支えてくれる臣がいた。過去を振り返れば、彼らがすべてのお膳立てをしており、斎治はそれにのっかるだけで良かったのだが、今となってはそのような臣は結十と董阮しかいなかった。
「交政はどうしますか?お父様に付いて行きますか?」
「私がおらずして、誰が姫様をお守りするんですか?」
和交政に逆に質問され、斎香は苦笑した。
「そうですわね、これからも頼りにしていますわ」
「姫様こそどうされるのですか?このままここで安穏とした生活を送られるつもりですか?」
「それも悪くありませんけど、私として先生を追いたいと思っています」
「先生って、劉六殿のことですか?」
斎香は頷いた。劉六は泉国におり、斎香も泉国へと向かう予定をしている。しかし、厳侑の商店の馬車が泉国へと出発するのはまだ先のことであり、斎香はそれを待っていた。
「もしお父様が界公を解いて義王を担ぎ出せば、戦乱は中原全体に広がる可能性がありますね。泉国も決して安全ではないでしょうけど」
斎香は予言めいたことを言いながらも、どこまで的を射ているかについては疑問に思っていた。しかし、この予言は見事なまでに的中するのであった。




