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七国春秋  作者: 弥生遼
蒼天の雲
454/958

蒼天の雲~1~

 天は蒼く一朶の雲もなかった。

 泉春宮の露台から眺める蒼空は果てしなく遠く、ふと視線を下に向けると泉春の街並みが広がっている。泉国国主である樹弘が泉国の中でも好きな風景のひとつであった。

 「僕に絵の才能があれば、絵画にして見せるんだけど、残念ながら僕には芸術の才能がまるでないからな」

 樹弘は政務の合間の休憩時間には、この露台で茶を喫すのが日課となっていた。樹弘は茶を一口啜りながら、いかにも残念そうに呟いた。

 「でも、あなたには書があるではないですか」

 茶の相手をしているのは公妃である樹朱麗であった。夫婦となって一年経ち、互いの呼び方にも慣れ始めていた。

 「僕の書は単なる下手の横好きだよ。芸術なんかじゃないさ。僕に芸術は無理だよ」

 樹弘は書を嗜んでいた。後世に百点近くの書を残すことになるが、いずれも『泉公樹弘の書として価値はあるが、芸術的な価値はほとんどない』と評される程度の出来栄えであった。

 「そんなこと仰らずに試しに絵を始めてみてはいかがですか?田璧も言っていましたが、あなたの余暇の趣味が増えるのはいいことです」

 「いや、いいよ。それにこの光景は絵にするには勿体ない」

 樹弘にとっては澄み渡る空も人々が築き上げた街並みも、絵の中に収めることが価値あるものであった。

 「主上、そろそろお時間です」

 樹弘の後にいた秘書官である景蒼葉が耳打ちをした。

 「そうだね。じゃあ、行ってくるよ」

 「はい」

 樹弘は樹朱麗に声をかけると、景蒼葉を従えて朝堂に向かった。これより閣僚の任命式を行うことになっていた。

 長らく刑部卿を務めていた備峰が高齢を理由に引退することになったのである。相宗如の家臣であった備峰は、その厳格な性格から法令を司る司法卿を務める一方で、文官を統制する式部卿の仕事も行っていた。但し、正式に式部卿の地位には着かず、丞相であった当時の景朱麗が式部卿を兼任しており、備峰はその補佐をしていた。

 「式部卿はそのまま丞相が兼任し、刑部卿には敏達をあてよう」

 樹弘は公妃と相談したうえ、決定を下した。

 朝堂に赴くと、すでに備峰と敏達が控えていた。敏達は引き継ぎのため数日前から泉春に滞在していた。

 「まず備峰の刑部卿の任を解く」

 樹弘が労いの声をかけると、平素と変わらぬ様子の備峰は恭しく拝礼した。

 「我が身が国家のために尽くせたのもひとえに主上のおかげでございます。ありがとうございました」

 備峰は最後まで彼らしさを崩さなかった。

 「次の司法卿には敏達を任命する。旧伯国での都督としての実績と経験を存分に活かして欲しい」

 「はっ。若輩の身ながら、全身全霊を込めて職務を全う致します」

 若輩と言うが、敏達ほど行政経験が豊富な人材はいないであろう。六官の卿、いずれも務めることができるであろう数少ない人物であった。

 「さて、備峰様、改めて長らくお疲れさまでした。ところでこれからはどうするつもりですか?僕にできることがあれば何でも仰ってください」

 儀礼的なやり取りが終わると、樹弘は砕けた表情で備峰に語り掛けた。備峰もわずかに口元をほころばせた。

 「そうですな。悠々自適に釣りや書を読みながら過ごしますかな」

 そう語る備峰の表情は、これまでに見たことがないほど清々しかった。樹弘は満足して備峰を送り出すことができた。


 その晩、樹弘は敏達夫婦を夕食に招いた。敏達夫人である敏祝も泉春にやってきており、これよりは泉春宮の奥向きの仕事をするようになっていた。

 「今のところは家宰を置いていないが、いずれは必要となる。その時は敏祝さんに家宰をお願いしたいと思っています」

 「私が家宰?」

 敏祝は驚いているようであった。過去の歴史において国主家の家宰を女性が務めた例は知られていない。異例とも言うべきであり、史書に残されていないということは、前例がないと見て差し支えなかった。

 「朱麗と話して決めたんだ。あなたの才能はよく知っているつもりです。ぜひともお願いしたい。ね、朱麗」

 樹弘は樹朱麗に同意を求めた。しかし、樹朱麗は顔色が悪く、苦しそうであった。

 「朱麗?」

 「あなた……うっ!」

 樹朱麗は口元を押さえると、顔をそむけて吐瀉した。樹弘は慌てて立ち上がり、樹朱麗の肩を抱いた。

 「医者だ。医者を!」

 敏達が部屋を出て医者を呼んでくれた。樹弘は腕で苦しそうにしている樹朱麗の表情を見て、気が気でなかった。

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