泰平の階~123~
阿望の助言に従い、斎治は費俊の邸宅を訪ねることにした。突然の主上のお成りに、費俊の家臣達は大騒ぎとなったが、斎治はそれらを沈めつつ、費俊がいる部屋へ案内させた。
「主上がお見えになられました」
家宰が声をかけ、扉を開けると、むっとした臭気が漂ってきた。家宰が慌てて窓を開けに行った。
「主上、お久しぶりでございます。このような様子で失礼いたします」
寝台から上半身を起こした費俊の声は枯れていた。以前と比べてやせ細っており、顔色も極めて悪かった。それでも斎治を見る瞳の眼光は鋭かった。
「病は相当ひどいのか?」
斎治は費俊の枕頭に立った。はだけた寝巻の隙間からあばらの浮いた費俊の肉体が見えた。
「どうにも……泉下から兄が呼んでいるようです」
「そのようなことを言うな。快癒して余の政を手伝ってもらわなければならん」
そう言いながらも無理であろうな、と思えた。
「斎興様のこと、尊毅とのこと。聞いております」
費俊は病の身であっても、情報の収集は怠っていなかったようである。そして斎治がどうして訪ねてきたかも察しているようであった。
「進退窮まっておる。どうすれば良いと思うか?」
「申し上げることがあるとするならば、ひとつしかございません。尊毅に大将軍の地位をやり、和解すべきです」
細い声ながらも、費俊ははっきりと言った。その言葉は斎治が予期し、望んでいたものとは違っていた。
「今、なんと……」
「尊毅を大将軍とするべきです」
「何を言う!分かっているのだろう?尊毅は自らの野心のために斎興を見殺しにした。いや、董阮によれば項泰によって殺害されたらしい。確証がない故、公然としていないが、やりかねないことだ。それを許して、尊毅に屈しろと言うのか!」
だからこそです、と費俊は苦しそうに咳をした。
「もし尊毅に大将軍の地位を与えなければ、尊毅は牙を剥くでしょう。この国はまた大乱となります。しかし、尊毅の欲望を果たしてやれば、彼は振り上げた拳を下ろすしかなく、主上の下に帰するしかなくなります」
費俊の策はまさに至言であった。今の斎治が事を治めるにはこの方法しかなかったであろう。斎治もそのように思わないでもなかった。しかし、感情は別の所にあった。
「余は斎国の国主ぞ。臣下に屈することなどできない。ましては興のことを思えば……」
なおのことできぬ、と斎治は涙を飲んだ。
「主上、私から申し上げることはもうありません。私はこれ以上、主上をお助けすることはできないでしょう」
「費俊……」
「最後に一言だけ申すなら、北定様が私に残した言葉です」
「北定が……」
「国家の泰平とは天高くそびえる楼閣と北定様は申しておりました。その楼閣の最上に座り、泰平の世を実現させるのが主上のお役目でございましょう。しかし、今の主上は楼閣を上る階段を自らの手で外しておられます。主上、自らの手で自らの首を絞める様な真似はお辞めください」
費俊の情理を尽くした言葉は、まさに諫言であった。しかし、その諫言に響かないのが、今の斎治であった。斎治の感情は、国主の地位を得たことにより鈍化していた。
「お前の言うことは分かった。慈愛せよ」
斎治は一刻も早く費俊から離れたい一心で席を立った。費俊は去り行く斎治の背中を見送りながら、静かに涙を流した。
費俊はそれから一週間ほど生き、家臣達に見送られながら病で亡くなった。斎治の偉業を成し遂げた者がまた一人、斎治の傍から去っていった。その葬儀に斎治が参列することはなかった。
斎治と尊毅の関係は膠着状態となっていた。すべては斎治の優柔不断さが原因であり、尊毅に大将軍の地位を与えることも、尊毅討伐の命令を下すこともできなかった。
この間、斎慶宮の人事が一部変わった。費俊の死によって空位となった丞相に坊忠が就任した。しかし、大将軍の地位だけは未だ空位で、これこそが尊毅討伐の命令を下せない理由であった。
『尊毅に匹敵するほど武人より人望を集め、尚且つ動員できる兵力が多い諸侯などいるのだろうか』
斎慶宮にいる閣僚の誰もが考え、考えても答えが見つからなかった。斎治の傍には千綜などの武芸の達人もいるが、軍の総帥には物足りなさがあった。
「こうなれば余自らが討伐の将となり、単騎でも栄倉に向かう他ないではないか!」
斎治は居並ぶ閣僚達に発破をかけるようなことを言ってみたが、今の斎慶宮には文官しかおらず、彼らは俯いて時間をやり過ごすだけであった。
『どうしてこうも武人がおらぬのだ……』
朝議に参加できる武人は、将の位を者達だけである。彼らの多くは領土を有する諸侯であるため、領地に引き下がっていた。誰一人として、斎治の危機を救うため出仕する者がいなかった。
『これが余の徳の無さか……』
文官ばかりを優遇した結果であろうか。斎治にはそんなつもりなどまるでなかったのだが、今となっては何事も言い訳にしかならなかった。
しかし、希望の光は突如として斎治の上に降り注いできた。新莽が三千名の大軍を率いて慶師に上洛してきたのである。




