泰平の階~116~
暗く、狭い岩牢であった。
立てば首を曲げねばならず、その状態で歩けば五歩で牢の中を端から端へと移動することができた。光源は北向きに作られた鉄格子しかなく、日中であっても異常に薄暗かった。
『何故こうなったか……』
牢の中で胡坐をかく斎興は、牢に入れられた当初はそのようなことを考え、自分を拘束した項史直に憤りを感じていたが、一週間以上もこの状態が続けば、あらゆる感情が死滅していった。伸び放題の髭も、吸い込めば吐き気を催すような体臭も、もはや気にならなくなっていた。ただ斎興であった男が、さながら石像のように鎮座しているだけであった。
斎興は不世出の英傑であることには違いなかった。武勇に優れ、衆望も集めていた。およそ現在のような状況に追い込まれるほど、何かが足りなかったわけではなかった。ひとつ言えるとすれば、貴人ゆえに他者の機微に敏感になれなかったということであろうか。もし斎興にそのようなものがあれば、何をしてでも劉六を傍に置き続けていたであろうし、赤崔心や尊毅を心服させることもできたであろう。勿論、捕らわれの身になることもなかった。
条行軍が再度、栄倉に攻め込んできた時も、斎興は胡坐をかき、岩肌に背中をもたれさせて薄っすらとした眠りについていた。条行軍が栄倉に攻め込み、牢の外が騒がしくなると、斎興は静かに目を開けた。
「何か……」
掠れた声で言った。従者がいるわけではなく、側近の董阮も行方を知らない。そのことを思い出した斎興は、這うようにして鉄格子に向かった。
夜であるにも関わらず、妙に外が明るかった。勿論日が昇っているわけではなく、月明かりでもない。栄倉の街並みが燃えていた。
「火事か……」
斎興が閉じ込められている岩牢は、栄倉南方の山腹にある。そこから栄倉の市街地を見下ろすことができた。栄倉市街地の各所で火の手があがっていた。斎興は鉄格子にしがみつき、顔を鉄格子に押し付けるように様子を探った。
火事ではないことはすぐに知れた。各地で戦闘らしき様子が散見された。
「誰が攻めてきた?」
考えるまでもなかった。条行軍である。斎興が捕縛されたことを知り、好機とばかりに攻めてきたのだ。
「出せ!栄倉を奪われるわけにはいかない!俺が指揮を執る!」
斎興が鉄格子を力任せに叩いた。まだ自分にそれだけの力が残されていたのかと不思議に思うほどであったが、条行に栄倉を再奪取されるわけにはいかなかった。斎興は拳から血が滲むまで鉄格子を叩いた。しかし、何人も来ず、鉄格子を叩く音だけが虚しく響いた。
「俺が何をした……。俺は大将軍だぞ、斎公の公子だぞ……」
斎興は未だに大将軍の、そして公子としての矜持を捨ててはいなかった。だが、見ようによってはこれほど滑稽なことはなかったであろう。すでに大将軍という地位も、公子という身分もないに等しく、仮に牢から出られたとしても、斎興には指揮する一兵もいないのである。みすぼらしい恰好をした青年が、ふらふらと街を彷徨い歩くだけのことであった。
「くそっ」
斎興は鉄格子から離れた。拳からは血が流れ、瞳からは涙が流れた。このまま人知れず岩牢の中に居続けるのか。斎興が地に膝と額をつけて静かに慟哭していると、足音が聞こえてきた。はっとして顔をあげると、鉄格子に向こうに人影があった。
「誰か?」
「ふん。まだ生きておられたか?」
毒のある言い方であった。その声の主を斎興は一生忘れることはなかった。
「項泰か……」
兄である項史直に命じられて、自分に縄をかけた張本人である。斎興は憎しみをもって項泰を睨んだ。
「おっと、ご無礼」
「ここから出せ!敵が来たのだろう。俺が指揮する」
斎興が叫ぶと、項泰は声を立てて笑った。
「指揮する。ははは、馬鹿なことを仰るな。貴方には何があるというのか?一兵卒のような武芸だけであろう。作戦のすべては劉六という医者に任せていただけであろうが」
「ふん。俺は将だぞ。将兵を束ねる存在だ」
「ははは、それこそ笑いものだな。将兵を束ねる?そのような人望がなかったからこそ、そこにいるのではないかね」
激しい嫌味を言いながら、項泰は鉄格子を開けた。どういうつもりだ、と思ていると、項泰が中に入ってきた。
「貴方は所詮、見掛け倒しの存在だ。自分が思っているほどの器量も才能もない。あるのは血筋だけだ」
そういう奴が一番むかつくんだよ、と言って項泰は剣を抜いた。身をかわそうとしたが、斎興の体は思うように動かなかった。項泰が突き出した剣先が斎興の喉を貫いた。斎興は何事か叫ぼうとしたが、その前に喉から血しぶきが上がり、絶命した。項泰はぴくりとも動かなくなった斎興の亡骸を見届けると、血まみれになった剣を投げ捨ててその場を去った。




