泰平の階~115~
新莽達が不安を感じながら別れの宴をしている頃、栄倉では項史直が酒を弟と酌み交わしていた。
「尊家の家宰に過ぎなかった俺が今や斎国の大将軍を拘禁する身だ。ふふ、十年前には信じられぬことだな」
項史直は上機嫌であった。動乱の時代でなければ、項史直は単なる尊家の家宰として終わっていただろう。それが今となっては斎国の政治を大きく握る身となっていた。
「あとは偽の調書を書き、斎興に無理やり署名させる。それだけで斎興は大将軍ではなくなり、我らが主が大将軍となる」
そういう筋書を描くのは項泰の仕事であった。項泰の頭脳にはこうした陰湿な策謀を生み出す機能が生まれながらに備わっていた。
「泰よ、斎興の処遇が問題だ。最終的に処分の判断を下すのは主上だが、殿に何事か意見を具申しておいた方がいいのではないか?」
「兄上。だからこそ我らが拘禁しているのです。さっさと調書を慶師に送り、ご裁可を出していただきましょう。決して斎興を慶師に送還されるような真似をさせてはなりません」
「もし送還を言い出して来たら?」
「その時は一思いに……」
「よせ。殿からは丁重に扱えと言われている。下手に殺せば、殿のお名前にも傷がつく」
項泰ならばやりかねないので、項史直は釘を刺した。項泰はひひっと笑った。
「泰!」
「分かっておりますよ、兄上。我らもこれからは重要な時。無茶はできません」
そう言いながらも項泰の顔はにやついていた。項史直は、この弟のことを時折気持ち悪くなることがあった。
「我らはもう昔の項家の人間ではないのだ。大将軍家の家宰ともなれば、事実上斎国の政治を影響を与える立場だ」
「左様です。ふふ、今もこうしてかつての条国の国都の主となって酒を飲んでいる。これほど愉快なことはないでしょう」
「そうだな」
項史直も弟と同じ気分であった。今宵は大いに飲んで手にした絶大な地位と権力に酔いしれたかった。
しかし、浮かれている項兄弟に忍び寄る影があった。条行軍である。彼らは栄倉を放棄したが、それは一時的なものであると考えていて、栄倉の近郊で潜伏し、反撃の機会を狙っていた。そこへ斎治の捕縛と、新莽、和長九、少洪覇達が栄倉を去ったことを知ったのである。
「条行様、好機です。敵は我らが傍にいることを気が付いておらず、兵力を減らすという愚行をしています。今の我らでも攻めきれます」
諏益は栄倉での状況を伝え、条行に進言した。
「分かった。しかし、敵も一筋縄ではいかないらしいな」
「そのようです。これに乗じれば、御父上の無念を晴らすこともできましょう」
条行は頷き、全軍に出撃を命じた。
深夜、大挙して出没した条行軍は、栄倉に侵入した。諏益は七つの山道を制圧するなく、ひとつの山道だけを攻め、一気に栄倉市街地に入り込んだ。
「何もご丁寧に栄倉全部を制圧する必要はない。主将たる項史直の首を取ればいい」
乾坤一擲の作戦であった。敵兵の数が減ったとはいえ、兵数としてはまだ条行軍の方が少ない。悠長に栄倉を攻めていては、数で圧倒されるかもしれないし、新莽達が引き返し来るかもしれない。そうなる前に電撃的に敵の油断を突いて攻め、一気に栄倉を制圧するしかない。そのためには主将である項史直の首をあげるしかなかった。
その項史直は、幸いと言うべきか、深夜になってもまだ起きていた。弟のとの祝宴は続いており、強かに酔っていても、意識ははっきりとしていた。
「条行め!」
項史直に焦りはなかった。数ではこちらが優位であることには間違いなく、落ち着いて対処すれば問題ないと考えていた。
「滅びそこなった連中は、自分達がすでに時代の潮流から外れたことを知らぬのだ。ここらで引導を渡してやりましょう」
項泰も酒の力で気が強くなっていた。従者に鎧を持ってこさせると、身に着けて前線に躍り出た。
しかし、各所で項史直軍は敗北し、戦線が維持できずいた。項泰は酔いが醒めるほどの危機を感じて、宿舎としていた斎慶宮跡に戻ってきた。
「兄上、まずいぞ。このままではここも包囲されてしまう」
項泰は謀略家であったが、戦についてはまずかった。およそ武人らしくない報告に、項史直は眉をしかめた。
「やむを得ん。一時的に栄倉を放棄する。俺達は斎興の問責の勅使として来たのだ。条行の相手は任務ではない」
項泰と違い、戦についても一角の才能を持っている項史直は、素早く決断した。
「それならば兄上、やっておくことがあるが、いいか?」
項泰の含みを持たせた発言にも項史直はすぐに頷いた。以心伝心、兄として弟の言わんとすることは即座に理解することができた。




