泰平の階~114~
真綿で首を絞められるとは、まさに今の斎興のことであった。
慶師に派遣した結十が帰ってこず、逆に問責の使者が出発したという先触れを受けて、斎興は改めて自分が置かれている状況が相当悪いことに気づかされた。
「問責の使者が派遣される謂われもないのに、しかもその使者が陪臣である項史直という!我らが不在の間に尊毅が朝堂を支配してしまったのだ!これほど恥辱があろうか!」
董阮は人目を憚らず怒りを顕にしたが、斎興は怒りよりも怖れの方が強くなっていた。問責の使者は間違いなく勅使の資格としてやって来るであろう。いくら尊毅が朝堂を支配しているといえ、勅使となれば斎治がその資格を与えたことになる。要するに斎治自身も、斎興に厳しく疑いの目を向けているということに他ならなかった。
「董阮、怒る気持ちは分かるが、何人であれ勅使である以上、従うしかない。下手にこちらの感情を見せると、墓穴を掘ることになるぞ」
「承知しております。しかし、大将軍も問責する勅使に陪臣を選ぶなど、正気とは思えません。ここは勅使を無視して、斎興様自ら慶師に上って主上に直訴致すべきでしょう」
董阮の進言は、斎興が生き残るための唯一の手段であったかもしれなかった。
「それはできない。主上が命じられたことであるならば、やはり臣下として従うしかない。私がそれを破っては、斎国に国家としての規律がなくなってしまう」
あるいは斎興はまだ事態を打開できる術があると信じていたのかもしれない。しかし、それはあまりにも甘い考えであった。数日後、栄倉に乗り込んできた項史直によって斎興はいきなり身柄を拘束されてしまったのだった。
項史直による斎興の身柄拘束。これに対して新莽、和長九、少洪覇達は手を出すことができなかった。少しでも抗議の声をあげれば、次に拘束されるのは彼ら自身であった。それほどの勅使という存在は重かった。
「ご苦労様でした、諸将の皆様。あとは私が処置いたしますので、皆様はどうぞ引き連れて領地にお帰りください」
言葉遣いこそ慇懃であったが、項史直の声色には将軍達よりも優位に立ったという優越感が滲み出ていた。新莽達は項史直が勅使という立場を笠に着て権力を振るわないうちに栄倉を出るしかなかった。
「項史直如きにあしらわれるなど全く不愉快であるし、何よりも大将軍の行く末が気にかかる。主上のことであるから、すぐに勘気を解いてお許しになると思うが、どうにも気に入らぬ」
新莽達は栄倉を出ると、和長九、少洪覇を呼んで簡素ながらも労いの宴を催した。本来であるならば、大将軍が不在であるならば次席になる新莽が慶師に赴き、戦勝の報告をせねばならないのだが、それも無用であると項史直に言われてしまった。今の新莽に大将軍の代わりができるとすれば、遠方から駆け付けた二人を労うことだけであった。
「同感でございます。しかし、主上は英明であられるし、慶師には丞相もおられる。悪いようにはなりますまい」
少洪覇は持ち前の陽気さを消していなかった。新莽も同じように事態を楽観視したかったが、どうにも不安がぬぐえずにいた。
「和長九殿はどう思われる?」
新莽はこの度の遠征で、和長九という男を見直していた。ただの無口な男かと思っていたが、要所では的確な意見を出し、新莽にはない知恵を持っていた。
「主上が……いや、尊毅殿が大将軍をどうされるかでしょう。すでに慶師の朝堂は尊毅殿によって支配されているのは明白。そうでなければ陪臣ごときを勅使にされるはずがない」
和長九に尊毅のことを言われ、新莽の心はざわついた。条家に仕えていた時より、尊毅の風下に立つことをよしとしていなかった。
「主上のご意向は無視されると?」
少洪覇の顔色が変わった。やや酔いのまわった目で和長九の凝視していた。
「それは分かりませんが、どちらにしろ斎興様が大将軍の地位から下がるのは間違いないでしょう。ここまでのことをして処分がなしとはなりますまい。そうなれば斎興様と尊毅殿の間でしこりが残ってしまいます」
「和長九殿の言うとおりだ。これでまた戦乱の世に戻ってしまうかもしれん」
武人としては戦乱は手柄を立てる機会であるから否定をするつもりはない。しかし、好き好んで戦乱を招き寄せる様な真似は新莽にはできぬことであった。
「少洪覇殿はしばらく動かず、英気を養われた方がよろしいでしょう。私も父上にそう進言するつもりです」
和長九の言葉に少洪覇は無言で頷いた。和長九も少洪覇も、その領地は慶師から遠い。戦力を温存して、来るべき戦乱に備えることができた。
「和長九殿。私はどうしたらいいと思う?」
二人に引き換え、新莽の領地は慶師に近い。それどころか尊毅の領地と隣接している。何事かあれば真っ先に動かなけれなならないのは新莽であった。
「新莽殿は、慶師から目を離さぬことです。尊毅に次ぐ地位にはあるのは貴方なのです。貴方しか尊毅を押さえられないでしょう」
和長九に言われ、新莽は高揚した。斎国を再び救えるのは自分しかいない。和長九の言葉がそのことに気づかせてくれた。




