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七国春秋  作者: 弥生遼
泰平の階
432/964

泰平の階~112~

 斎興の使者として慶師に到着した結十は、すぐに斎慶宮に向かわず、私邸に入った。慶師の様子が容易ならざる状況になっており、情報の収集と整理をしたかったのだ。

 「大将軍の謀反という噂はどこから出ているのだ?」

 結十は、留守を任せていた部下達に問うた。栄倉で和長九が言っていた噂話が慶師に近づくにつれ大きく拡大し、すでに慶師では明日にでも斎興が兵を挙げると言わんばかりの状況になっていた。

 「それが我らも分かりません。丞相や北定様が主上を宥めておられますが、朝堂の雰囲気は張り詰めたものになっています」

 どこか他人事な部下の発言に腹立たしさを感じながらも、このままでは埒があかないので、費俊か北定に会わねばと思った。

 『会うなら北定様だ』

 費俊よりも北定の方が年長であり胆力もある。結十は旅塵も落とさず、北定の私邸に向かった。しかし、北定はおらず、結十は身動きが取れないようになってしまった。


 北定は、朝堂でまさに斎興謀反についての討議に参加していた。

 「栄倉を陥落させながらも帰ってこないと言うのが、大将軍に何かよろしくない企みがある証拠ではないですか!あれだけの兵力と時間がありながらも、条行を逃がしたことも疑念を深めさせます」

 水を得た魚のように朗々と喋るのは覚然であった。つい先ごろまで北定に舌鋒鋭く糾弾され顔を蒼白にして黙り込んでいた覚然とはまるで別人のようであった。

 『覚然め』

 北定は苦々しく思っていた。斎興が謀反を起こそうとしているというのは、どう考えてもくだらぬ風聞に過ぎない。覚然はそれを利用して自らに向けられている疑いの視線を逸らそうとしていた。

 『この際、覚然のことなどどうでもいい。問題なのは誰がこの噂を焚き付けているのかということと、主上も公子に疑いの目を持っているということだ』

 覚然は誰かが撒いた餌にまんまと喰いついたに過ぎない。北定は尊毅ではあるまいかと思っているのだが、そのような証拠などなく、寧ろそのことを声を大にして言えば墓穴を掘るように気がしていた。

 「主上。それらは所詮巷の噂でございます。まずは我らが冷静となり、事態を正確に把握しなければなりません。まずは使者をやって、栄倉での状況を確認したうえで大将軍のお言葉を聞きましょう」

 北定は努めてまっとうな意見を述べたつもりであった。これまでの斎治であったならば、北定の言葉をすぐに受け入れたであろう。しかし、斎治の心はすでに北定から去っていた。

 「国主は余であるぞ。どうして余が臣下である大将軍の不審な動きに対して遜って使者を出せねばならぬ。余から出すのは問責の使者であり、大将軍が自ら弁明すべきであろう」

 斎治は寧ろ、何かと口うるさく言葉を挟んでくる北定のことを完全に疎んじていた。

 「主上……」

 北定は寒さを感じた。もはや斎治は北定の言葉を何も聞き入れないだろう。そう予感したからこそ、最後の直諌をしなければならなかった。

 「主上。長きに渡り条家によって奪われていた国主の地位と国号を元に戻すことができたのは、ひとえに主上の徳によるものです。その徳とは何でありましょうか?臣下を信用し、任せる度量のことではありますまいか。私は泉国で泉公に謁見できました。また泉公の家臣達にも会うことができました。泉公は苦楽を共にした家臣達を信用し、仕事を任せております。家臣達も泉公のそうした心情があるからこそ、赤心をもって働いているのです。主上、もっと臣下のことをお信じなさいませ。ましてや大将軍は臣下というだけではなく、御子ではありませんか。主上が哭島に流されている間、本土で戦っていた大将軍にいかなる二心がありましょうや。あの時のように大将軍を信じ、今はその行いを黙ってお認めください」

 北定は斎治が言葉を挟まぬように一気に喋った。途中、斎治は顔を真っ赤にしていたが、あえて何も言わなかったのは、北定に見せた最後の温情であっただろう。北定がすべて話しきると、苦し気に唸った。

 「北定、もうよい。下がれ。余は国主ぞ。斎国の国主ぞ。他の国主のことなど知らぬ。余は余のやりたいようにやる」

 下がれ、ともう一度言った。北定は丁寧に拝手すると、席を立った。


 「北定様!」

 北定が朝堂を去ると、費俊が追いかけてきた。

 「丞相、また朝議の途中だぞ。丞相が抜けてきてどうする?」

 「そういう場合でありません。朝堂にお戻りください。私もお力になりますので」

 「費俊、無駄だ。もう私の声は主上に届かんよ。国主になられて主上は変わられた。勿論いい意味で変わられた部分もあるだろうが、無駄に視野が広がってしまった。私やお前がお傍にいた頃とはもう世界が違うのだよ」

 「そのようなことは……」

 「よい機会だ。私は顧問官を辞する。主上もそれをお望みであろう」

 斎治が一言も北定の声に耳を貸さないのであれば、顧問官という地位は不要であろう。

 「北定様、御考え直しください。主上の御気分もいずれ変わるでしょう」

 「その前にこの国は再び大乱となるだろう。私もお前も経験したことのないような大乱がな。だから寧ろ、ここで去るのは良いことなのかもしれんな」

 北定が乾いた笑いを浮かべた。そこにはもはやかつての活力に満ちた北定の姿はなかった。

 「国家の泰平とは天高いそびえる楼閣のようなものだ。しっかりと基礎を固め、幾多の階段を登らなければ辿り着くことができない。主上はその階を自らの手ではずしてしまった。これでは楼閣の頂上に達することはできない」

 それが費俊の聞いた北定の最後の言葉となった。これ以後、北定は表舞台から完全に消え、その生死すらも知られることはなかった。


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