泰平の階~105~
条高の遺児である条行はこの時十二歳に過ぎなかった。早くから栄倉を離れ、諏益という家臣に撫育させてきた。この諏益という男は絵に描いたような剽悍な武人であり、条行への教育方針はその精神が強烈に反映されていた。条行は諏益が望んだように育っており、栄倉を脱出してきた者達によって条高の死を知ると、涙を流して激昂した。
「どうして栄倉の危機を早々に私に教えなかったか!知っておれば、単騎といえども栄倉に進み、父上をお救い申し上げたのに!」
その様子を傍に見ていた諏益は、条高の死を嘆きつつも、自分の思うように勇ましく育った条行のことを嬉しく思った。
「行様。いや、もはや貴方様は今より条公です。我が軍馬を用意しますので、今すぐにでも出撃いたしましょう。せめて先代の亡骸だけでも丁寧に葬って差し上げましょう」
諏益としても条高の敵を取りたかった。条高から受けた恩は海より深く山よりも高い。その恩を返すのは、まさに今なのだと意を決していた。
「お待ちください、行様」
異を唱えたのは蝶夜であった。条高の寵姫である彼女は、ここでもそれに相応しい待遇を受け、条行などは『母上』と言って敬意を表していた。
「母上、いくら貴方の言葉とはいえ、ここは行かせてください」
「落ち着ください、行様。いえ、主上。残念ながら敵には勢いがあります。ここで栄倉を奪還してたとしても、すぐに奪い返させてしまいます。ここは、敵の緩みを待つべきです」
「緩みですと?」
「左様です。奴らからすると、念願を成就し、浮かれているはずです。そう遠くないうちに気持が緩み、綻びが発生します。その時を待つのです」
条行は聡明であった。蝶夜の言わんとすることを即座に理解していた。一応、確認するように諏益に視線を送った。
「蝶夜様の仰る通りかもしれません。私も怒りのあまり我を忘れておりました。それに奴らがここを攻めてくる可能性もあります。ここは雌伏して、捲土重来を待ちましょう」
諏益も蝶夜の意見に賛同した。こうして条行達は栄倉と慶師の状況を見つつ、沈黙を守ることにした。余談ながら、斎国首脳部は、南部に跋扈する諏益達の勢力を危険視しながらも、動かぬのであれば無理に眠っている獅子を起こす必要はないとばかりに静観を決め込んでいた。そのことが諏益達の雌伏を許し、力を蓄えさせる結果となった。
蝶夜の言う緩みは一年あまりで訪れた。慶師では斎公と武人達の不和が公然と囁かれ、赤崔心が反旗を翻そうとしている。
「今こそ好機かと存じます」
諏益が進言すると、条行は頷いた。
「今は亡き我が父であった条高に恩を感じる者は我に続け!」
条行は自ら馬上の人となり栄倉に向けて進軍した。諏益の拠点を出発した時は五百名程度の小勢であったが、栄倉に達する頃には二千名にも膨れ上がっていた。それだけ斎治の新政に不満を持つ者が多かったということである。
当時、栄倉には五百名程度の斎治側の軍勢がいたが、瞬く間に蹴散らされ、わずか一日で栄倉を奪還されることとなってしまった。
大将軍という職務にある斎興は、朝議において赤崔心のことと、条行による栄倉奪還の報せを同時に言上しなければならなかった。
「ほほ、大将軍も大変でございますなぁ」
斎興が報告を終えると、坊忠がまるで他人事のように声をあげた。斎興はきっと睨んだが、坊忠は品のない笑みを湛えるだけであった。先の朝議で斎興が威圧して以来、坊忠も斎興のことを快く思っていないようであった。
「で、どうするのだ、大将軍」
斎治が抑揚のない声で言った。そこには臣下を叱る厳しさも、息子を心配する温かみもなかった。
『父上も俺を冷笑している』
我が子の能力とはこの程度であったか、と言われているようであった。挽回せねばなるまいと思いつつも、斎興には妙案が思い浮かばなかった。
「主上、大将軍。僭越ながら、ご意見を申し上げてもよろしいでしょうか?」
声をあげたのは、佐導甫であった。彼は左中将の地位にあり、朝議に参加していた。
「申してみよ」
斎治が促すと、佐導甫が一歩進み出た。
「申し上げます。赤殿の一件も、栄倉奪還の一件も、大将軍だけの咎でありません。我ら武人すべての問題であります。この二つの案件については、我ら武人が総出で当たるべきではないでしょうか?」
佐導甫の意見は斎興にとっては少々意外であった。武人として大将軍である自分を非難するものかと思っていた。
「ふむ、それで」
「我らは二つの問題を直面しております。大将軍には栄倉奪還の指揮を執っていただき、赤殿については尊毅将軍にお任せすべきではないでしょうか。大将軍は先程の戦いで南方におられましたし、新莽将軍をつければ万全でありましょう。また赤殿については望み通り尊毅将軍が赴けば、あるいは平和裏に事を治めることができましょう」
佐導甫の提案は二つの問題を解決するには最善の策であろう。しかし、これで問題が解決されれば、斎興の大将軍としての資質に疑義を挟むことにもなるであろう。
『しかも尊毅の方がはるかに問題を解決するのは容易い。武人達の信望はますます尊毅に集まる……』
斎興としては避けたい状況であったが、自らが妙案を出せない以上、佐導甫の提案を飲むしかなかった。
一連の朝議でのやり取りを、丞相である費俊は黙って見守るしかなかった。
『私ではどうにもできぬ』
武のことであれば将軍達に任せる他にない、というわけではない。各国で差はあるものの、朝議にかけられたことであれば意見をし、時として自らの出師も辞さないというのが丞相の役割である。
しかし、今朝議で話されている内容は、内乱を如何に討伐するかという内容に見えて、実のところ斎治政権下における内部抗争なのである。単純に言えば、坊忠を筆頭とする文官と、尊毅を筆頭とする武人、そして孤立状態の斎興の対立である。
『いずれにも与しない』
というのが費俊の密かな立場であった。丞相である自分がこの対立に加わり、どこかに加担すれば、残された一勢力が破綻する。そうなれば丞相である自分の地位どころか斎治の新政すら危うくなる。
『今は沈黙を通し、どの勢力にも加担するな』
北定から届けられた書状にもそう書かれていた。北定はすでに泉国からこちらに向かっているらしい。自分が到着するまでは、ことを荒立てるなと釘を刺されていた。
そういう意味では、費俊としては、斎興と尊毅の出陣について今しばらく待たせるべきであったのだろう。しかし、それを言って聞かせるほどの力は費俊にはなく、斎治が諾とした以上、従うよりなかった。今はただ、北定の一刻も早い帰国を待つだけであった。




