泰平の階~102~
翌日、劉六が泉春宮に訪ねてくると、樹弘は自ら門前まで出迎えに来た。
「やぁ、よく来てくれました。僕はきっと来てくれると思っていましたよ」
十年来の知己にあったかのような気軽さで劉六を迎えた樹弘は、自ら泉春宮を案内した。
「主上自らお出迎えとは……」
「はは、ここは僕の家だからね」
樹弘はそんなことを言いながら、劉六を私室に通した。そこには穏やかな表情をした青年と、真紅の髪をした背の高い女性が起立して劉六を迎えた。
「ああ、こっちが丞相の甲朱関、そしてこちらの女性が公妃の朱麗だ」
二人の名前は当然ながら劉六は知っていた。この部屋に泉国の首脳部が揃っているのである。
『甲朱関は軍略家としても名高く、公妃はかつて丞相として泉公を支えた……』
その二人が威儀を正して劉六を迎えているのである。本来、貴人を前にしても緊張するどころか、自然体でいられる劉六が柄にもなく身を固くした。
「忙しいところ申し訳ないですね。診療所の方は?」
「助手の僑秋という女性に任せてきました」
「ああ、一緒にいた女性か。今度はぜひ彼女と一緒に来てください。食事でもして色々な話を聞きたい」
そこへ侍女が茶をもってきた。香の良い茶であった。劉六が口をつけてみると、芳醇な味が口内に広がった。
「早速本題だけど、泉春は人口が増えて医療施設や医者の数が追いつかなくなっている。厳侑の手紙では貴方は斎国でそのような仕事をしていたようですから、ぜひとも我が国でもその能力を活かして欲しいのです」
樹弘は一枚の紙片を劉六に示した。そこには泉春の人口推移と医者の数、医療施設の数が書かれていた。確かにこれを見る限りでは医者の数は足りているとは言えなかった。
『だが、まったく足りていないというわけでもない』
おそらく樹弘という君主は、先のことを見越しているのだろう。これからも泉春の人口は増えると考えているのだ。
「できることならば、小さな診療所ではなく、大きな病院を作っていきたいと考えています。それが泉春で成功すれば、他の邑でも実践していきたいです」
と言ったのは甲朱関であった。すでにそのための予算も確保しているという。
『万事が素早い……』
劉六は甲朱関が立案したという計画書に目を通した。実に理路整然としていて、僅かな無駄もないように思われた。
「良い計画かと思います。しかし、ここまで計画が進んでいたのなら、わざわざ私を呼ばれる必要はないと思いますが……」
「いやいや、劉六殿がおられなければ我々だけで計画を進めていましたよ。しかし、世に名高い適庵先生の門下生が計画に参加してくれれば万全というものです」
甲朱関は軍事的に名声を得ていたと聞いていたが、政治面でも有能であるらしい。劉六は、改めて泉国の人材の豊富さを感じずにはいられなかった。
「劉六先生には引き続き診療所をやっていただき、時間がある時にこちらの手伝いをしてください。ああ、何か諮問したいことがあれば、こちらから先生の診療所にお伺いします」
樹弘は決して劉六に仕事を無理強いしなかった。この辺りのことも、斎国での違いを感じてしまい、劉六は自然と樹弘の申し出を引き受けていた。
夕暮れ遅くに帰ると、僑秋が心配そうに診療所の前で立ち尽くしていた。送迎の馬車から劉六が下りてくると、表情を一気に明るくさせた。
「先生!ご無事で!」
どうやら僑秋は、劉六が何事かひどい目に遭っていると思っていたようである。
「心配性だな、君は」
「だって……」
「泉公は仁君だ。妙な暗闘をする連中とは違うよ」
「そうですか……」
それでも僑秋は心配そうであった。確かに命を狙われるようなことがあったのだから、心配になるのは無理もなかった。
「それで診療所の方は?」
「今日も恙無く」
「そうか。少し早いが、夕食にしようか」
「はい。準備いたします」
「いや、外で食べよう。泉公が君にも美味しいものをと言って小遣いをくれた」
「泉公が……」
「泉公は気遣いのできる方だ。私は斎興様を有徳の人だと思っていたが、泉公の徳は測り知れない。それこそが今の泉春の繁栄を表している」
泉国でなら劉六も本来の生き方ができるのではないか。これほど自らの人生で気が楽になった時はなかった。
「さて、何を食べるかな」
「それなら先生、患者さんから美味しいお店を教えてもらったんです。そちらへ行きませんか?」
僑秋の顔にも笑顔が戻った。彼女の笑顔もまた劉六の気持を軽くしてくれた。




