泰平の階~89~
さて、渦中の劉六である。劉六は栄倉で一通りの業務を終えると、その足で千山に帰った。斎興や結十はしきりに官途につくように勧め、せめて慶師に立ち寄らないかと誘ったが、劉六は考える間もなく断った。
「医者の仕事がありますので」
劉六がそのように断ると、二人は唖然としていた。
「お前は今更医者に戻るのか?」
斎興は明らかに驚いていたが、劉六としては何故驚くのか不思議であった。
「私はもとより医者です。今の姿は仮初。本来の役割に戻るだけです」
劉六からするとそれ以外の理由はなかった。斎興のもとを去るのも役目を終えたと思ったからに他なかった。
千山に戻ってきた劉六は診療所を再開させた。と言っても、劉六が不在の間は僑秋が代役を務めており、診療所自体は閉じられていなかった。劉六が帰って来ると、僑秋は満面の笑みで迎え、自らは劉六の助手に戻った。
「なんなら君にこの診療所を譲ってもいいんだぞ」
劉六が冗談半分、本気半分で言うと、僑秋は笑いながら丁重に断った。
「私は先生の助手です。それが私の役目ですから」
そう言われれば、そうかとしか言えないのが劉六であった。
千山に帰ってきた半年が過ぎた。劉六がいつものように診療所の二階から下りてくると、僑秋が困惑した様子で待っていた。
「どうした?急患か?」
「いえ、違います。慶師から書状が……」
「またか……」
劉六はややうんざりした。これまで何度も慶師から仕官を勧める書状が届けられていた。主に結十からであり、最初は丁重に断りの返事を書いていたのだが、次第に面倒くさくなり、最近では返書していなかった。
「まったくしつこいなぁ」
と言いながらも、劉六は書状を開いた。差出人は結十であったが、内容は仕官を勧めるものではなかった。
「どうしたんですか?」
「慶師に病院を作って欲しいと言ってきている」
慶師は長年の荒廃により、医療施設が存在していなかった。この国の国都となる慶師に医療施設がないのはいかがなものかという議論になり、建設を決めたということであった。
「だが、残念ながら今の慶師には病院を建てる算段ができる者がいないらしい。その仕事を私にやって欲しいということだ」
「先生、行くのですか?」
僑秋が心配そうに言った。単に仕官しろと言われるのであれば、一考もせずに断っていたところだが、医にまつわることであるのなら無碍に断り辛かった。
『しかし、これを口実にして慶師に留め置かれるかもしれない』
それだけは御免であった。だが、現在の慶師にはまともな医療施設がなく、多くの病人や怪我人が困っていると思うと、今すぐにでも飛び出したかった。
「医療に関わることなら断れないな」
「でも、先生である必要はないじゃないですか?」
僑秋は頑なであった。また独りで留守番をさせられるのが嫌なのだろう。劉六はそう思った。
「君も行くかね?」
「え……私もですか?」
「そうだ。医術を志すのであれば、単に病や怪我を治すだけではなく、医療体制を整えるという仕事も学んだ方がいい。それに君がいてくれると色々と助かる」
「で、でも……ここはどうされるんですか?」
「千山の医者は私達だけではない。しばらく空けていても大丈夫だろう」
そもそも何かと空けていることが多い。今更長い間空けていても文句を言う人は少ないだろう。
「君が嫌なら無理には言わないが……」
「いえ、先生。行きます、行かせてください」
僑秋は身を乗り出して懇願してきた。そこまで医療施設の建設に関心があるとは知らなかったが、学問を教える立場として嬉しいことではあった。
劉六と僑秋は、診療所を閉めて慶師へと向かった。劉六にとっては今回も非常に楽な旅であった。但し今回は、適庵の門下に入るという肩書ではなく、結十の書状がものを言った。関所を通る度に、手形代わりに結十の書状を見せると、そこの領主や代官が飛んで迎えに来るほどであった。
「先生、本当に凄いことをなさったんですね」
連日連夜、領主の屋敷やら最高級の宿に泊っている。今も劉六と共にしている夕食も、これまで見たことのない美食ばかりであった。そのことで僑秋は劉六が成し得たことの大きさを実感していた。
「そうでもない。できることをやっただけだ」
劉六からすると、自分ができることをやっただけのことであった。それが世間でどれほど評価されているかなど、あまり興味がなかった。
「そんなことよりも、実際は慶師に到着してから教えるが、医療施設を建設するにしてもただ単に建物だけを作ればいいというものではない。薬草を育てる場所の必要だし、医者や看護師を育てる教育機関も必要となってくる。その他、様々な機関を同時に建てなければならない。それだけではなく、都市計画として衛生的な街づくりを……」
劉六が料理にも手を付けずに医療施設を作るにあたっての注意点などを述べていると、僑秋は急に悲しそうな顔をして箸を止めた。
「どうかしたか?」
「いえ……今は食事中ですし、そういう話は……」
「ふむ、そうだな。こういうことはちゃんと授業として教授しなければならないな」
「すみません、折角教えていただいているのに生意気なことを……」
「いや、これは私が悪いな。どうも私は気の利いた話ができない」
「そんなことありませんわ。先生の話、もっとお聞きしたいです。あ、お仕事の話ではなく……」
「私から医術の話を取り上げると、何もないぞ」
「では、適庵先生のことをお聞かせください」
「先生のことか。そうだな」
劉六は嬉々として適庵との思い出について語り出した。僑秋は嬉しそうに劉六の話を聞いていた。




