黄昏の泉~37~
樹弘達は泉春の戦火を掻い潜るようにして脱出した。景政達が騒動を起こしてくれたおかげで追っ手が来る気配もなく、馬車は南へと進んだ。
「ここまで来れば大丈夫でしょう」
それまで馬が疲れるほど馬車を走らせてきた無宇がようやく速度を落とした。無宇の隣に座っていた樹弘は心配そうに荷台を覗くと、景秀は寝かされており、その傍で景朱麗が寄り添って看病していた。
「景秀様の様子はどうです?」
樹弘が尋ねると、景朱麗は困惑したように樹弘を見返した。
「今は落ち着いて……います」」
明らかに樹弘に対してどのように接していいのか分からぬという感じであった。それは樹弘も同じであった。
「主上。この先に湖があります。そこで馬を休ませましょう」
景弱が馬車に馬を寄せてきた。主上。そう呼ばれる度に樹弘には違和感しかなかった。
『僕は主上なんかじゃない!』
樹弘は何度もそう叫んで馬車から飛び降りたかった。しかし、それを自制できたのは景朱麗の存在があるからであった。少なくとも景朱麗を甲元亀達の下に送り届けるまでは、樹弘は自らの旅を終わらせるわけにはいかなかった。
しばらく行くと小さな湖が見えてきた。湖畔に馬車を止め、馬に水をやって休ませた。樹弘も景秀のために水を汲んでこようと馬車から降りると、
「朱麗、何をしている。主上のために水を汲んできなさい」
という景秀の声が聞こえた。きっと景朱麗は困惑していることだろう。樹弘は意地悪をするつもりはなかったが、木椀に水を汲んで荷台で寝ている景秀に差し出した。
「主上。これは畏れ多いことです」
景秀はわざわざ上半身を起こし、深々と叩頭した。その態度は今の樹弘にはひどく不愉快に思えた。
「景秀様。僕はまだあなた達の主であることを認めたわけでもないですし、なるつもりもありません。そのようなお気遣いは無用です。今はみんなが無事に逃げ切ることをお考えください」
樹弘としてはこれで景秀に意思を表明したつもりであった。たとえ自分が神器に認められた泉国の真主であるとしても、その地位に着くつもりはない。それだけははっきりとしておきたかった。
「聞いたか、朱麗。我らのことまで案じてくださるとは……。なんと慈悲深き主上ではないか」
まさに国主に相応しい、と景秀は涙していた。樹弘の言葉は逆効果のようであった。樹弘はこれ以上言葉を発しても同じ結果になるだろうと思い、ため息を交えて口をつぐんだ。
荷台から下りた樹弘は、湖の水で顔を洗った。何度かじゃぶじゃぶと洗ったが、まるですっきりしなかった。
「樹君……いや、主上と呼ぶべきなのか……」
いつの間にか背後に景朱麗が立っていた。明らかに戸惑いの色を浮かべていた。
「今までどおりでいいですよ、朱麗様」
「流石にそういうわけにはいかないだろう。君がそう思っていても、他人はそうは取らない。特に父上などは……」
景朱麗は馬車の方を見た。確かにあの様子では景秀は一歩も引かないだろう。
「頑固そうな人ですからね」
樹弘が言うと、景朱麗はふふっと笑った。
「頑固も頑固さ。意地でも君を国主にするつもりだろう」
「国主……」
とてもではないが、樹弘などがなれるはずもない尊い地位である。庶民として育ってきた自分に、そのような資格もなければ才能もないはずであった。
「資格ならある。君は間違いなく泉国の神器を抜いてみせた。これ以上の資格はない。だから父上は執拗なんだ」
「でも、僕は庶民の出身ですよ。この剣を抜けたのもたまたま……」
「偶然で抜けるものではない。その神器が君の家の家宝だと言うのなら、やはり君は泉家に連なる者だろう」
景朱麗に言われ、まさかと思う一方で、自分が父について何も知らないことを考えなければならなかった。樹弘の父が泉家の者だという可能性は全く否定できないのだ。
「いや、やはり血統のことなど関係ない。君が神器を抜いてみせた。それが全てなのだろう」
「しかし、僕には学がありませんし、国主としての才能も……」
「学など後から得られるし、国主の才能など具体的には誰も分からないさ。分かっていれば、相房もまともな国主になっていただろう」
確かに相房は仮主であるが、国主であることには違いなかった。相房は別に資格を持っていたから国主になったわけではなく、才能があるから国主を続けているわけではない。
「あえて言うなら、民に慈悲を持ち、己の技量を理解して人を使えるかどうかかな。ふふ、これじゃまるで私も君が国主になることを望んでいるようだな」
「望んでおられるのですか?」
「どうだろうな。私にも分からない。唐突過ぎて実感がないだけかもしれないが……。だが、何も知らぬ誰かよりも君の方がいいかもしれないな」
「朱麗様が丞相をしてくれるのなら、なってもいいですよ」
樹弘は冗談のつもりで言った。景朱麗も冗談と受け取ったのだろう。ははっと声をあげて笑った。
「それならば精々頑張らないとな。まずは無事に元亀様達と合流しよう」
景朱麗は吹っ切れたような爽やかな笑顔を見せた。




