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七国春秋  作者: 弥生遼
泰平の階
365/963

泰平の階~45~

 斎興を迎えるために董阮が去ると、劉六はそれまでとは一転して自ら率先して軍事の仕事をこなすようになっていた。それでいて本来の仕事である医者の仕事も疎かにはしなかった。

 「どういう風の吹き回しだ?」

 僑紹はありがたく思いながら、冷やかすように言った。

 「最善の判断だからだ」

 劉六は面倒くさそうに答えた。いちいち詳細に説明するのも面倒に思うほど今の劉六は多忙だった。あえて説明すれば、斎興を千山に迎えるのも、自分が千山で軍事に従事するのも、その方が千山のためになると考えたからであった。

 董阮達の前で披露した点と線と面の戦略は言うまでもない。条国軍が攻めてきて、それに千山も巻き込まれるとするならば、より有効な戦略を取るべきである。そして、その戦略をより強固なものにするためにも千山の将兵を鍛えておく必要があったのだ。

 「そうだな。軍事はお前に任せるぞ。おっと、もう素人だとか言うなよ」

 「分かっている」

 などと言いながらも、まだ劉六は自分のことを軍事的な素人だと思っている。しかし、少なくとも千山の将兵を自分の描いたような軍事組織にできれば十分に条国軍と渡り合える自信があった。この辺りが同時期の軍事的天才である甲朱関や譜天と異なるところであった。劉六の凄みは一から軍事組織を作り上げた軍政家としての側面も強かった。

 「明日には公子がお見えになる。早速にお会いしたいということだから、昼過ぎには政庁に来てくれ」

 僑紹はそう言い残して去っていった。しばらくして入れ替わるように潘了がやってきた。文字を覚え始めた潘了は劉六の副官になっていた。劉六は現在行われている軍事教練について細々な指示を与えた。

 「では、そのように致します」

 潘了が去ると、机上にあった診療録に目を通し、薬剤の調合を行っている僑秋に指示を出した。

 「先生……」

 「すまない。どこか間違っていたか?」

 「いえ、先生の指示はいつ完璧です。ですから逆に心配になることがあります。何でも完璧にこなそうとするあまりに精根が尽きてしまうのではないかと……」

 「私は大丈夫だ。逆に君に迷惑をかけてしまっているな」

 「私の方こそ大丈夫です。先生は……その……医術の道を捨てられるつもりはないのですか?」

 「捨てるつもりどころか、私は生涯医者でいたいと思っている。ま、私を取り巻く現状を考えると説得力ないかな」

 劉六は鼻で笑った。僑秋はやや潤んだ瞳で劉六のことを真っすぐに見ていた。

 「私はね、私の学識と才能が必要とされるのであれば、有効に使ってもらおうと思っている。それが私の生き方であり、医者としての哲学だとも思っている。これはちょっと偉そうか。適庵先生が聞けば怒られるかな」

 「そんなことはないと思います。先生は……素敵です」

 「そうか。ありがとう」

 劉六は素敵の意味を言葉通りに受け取った。しかし、僑秋の言葉の奥に別の感情があることに気が付かないのが劉六であった。

 「先生……あの……!」

 僑秋が何事か言うとしていると、診療所の扉が叩かれた。言葉を止めた僑秋が扉を開けると、一人の青年が立っていた。

 「劉六先生はいらっしゃいますか?」

 柔らかい表情で、声色にも穏やかさがあった。悪人ではあるまいと思ったが、劉六の知らぬ顔であった。

 「私が劉六ですが」

 「ああ、貴方が劉六先生ですか。私は適佑。適庵の子です」

 「貴方が先生のお子さんですか?」

 適庵に一人息子がいるのは知っていた。劉六が栄倉にいた頃は、適庵のかつての弟子の所に修行に出ており、劉六とは面識がなかった。確かに目元などは適庵によく似ていた。

 「どうして先生のご子息がここに?ああ、とにかくお入りください」

 「実は……父が亡くなったのです」

 劉六は時が止まるのを感じた。周囲の景色が急に白黒になり、音も聞こえなくなっていくような感覚に陥った。

 「今、なんと……」

 「一か月ほど前に父が亡くなったのです。病でした」

 劉六は崩れ落ちそうになるのを堪えながら、椅子に腰を下ろした。しかし、涙は堪えることができず、静かに落涙した。

 「そんな馬鹿な……。私が栄倉を去る時はお元気だったのに、まだそんなに時が経っていないのに……」

 「急な病だったのです。私も修行先から呼び戻されましたが、その時にはもう……」

 適佑も涙をした。その時の光景を思い出したのだろう。

 「私は先生に恩を受けるばかりで、ついにお返しすることができなかった……。それで、適佑さんはどうしてここに?」

 「父の死は書状で皆さんにはお知らせしたのですが、何人かの方には直接お会いしてお知らせしようと思いまして。特に劉六先生、貴方には一度会っておきたかったのです。父はよく書状で劉六先生のことを褒めていました。あれほど優秀で真面目な人物はいないと」

 劉六は照れと悲しみから顔を下げた。

 「適佑さん、ぜひ今夜はここにお泊りください。先生の在りし日の姿についてお聞きしたいのです」

 「そうしたいのも山々なのですが、これから翼国に向かわなければなりません。名残惜しいですが、これで……」

 「そうですか……。先生の医学校はどうするのですか?」

 「残念ながら閉校です。私に跡を継げという人もいますが、とてもその境地にはたどり着けません。父は劉六先生に継いで欲しかったようですが、あれにはこの医学校は小さすぎるとも言っていました」

 適佑は少し笑いながら、荷物袋から封書を取り出した。

 「これは父の遺言です。何人かのお弟子さんには書き記していたようです。これは、劉六先生の分です」

 封書には間違いなく適庵の字で『親愛なる弟子劉六へ』と記されていた。

 「では、私はこれで。またお会いしましょう」

 適佑は一礼して去っていった。適庵の遺言を握り締めながら劉六は恩師の面影遺す青年を見送った。

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