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七国春秋  作者: 弥生遼
泰平の階
350/959

泰平の階~30~

 僑紹達を送り出して三日が過ぎた。負傷兵はまだ送られてこず、勝った負けたという報告もなかった。

 『勝っているならいいが、負けたとなれば、こんなところでじっとしていられなくなるぞ』

 劉六は拠点の留守を任せされている将校に何度も状況の確認を求めたが、この将校は自発的に動こうという気がないのか、煩わしそうに短く対応するだけであった。

 『こんな調子では負けていた場合、誰が指揮を執ってここを守るのか……』

 一抹の不安を感じた劉六は、江文至を密かに呼んだ。

 「我が軍の様子を見て来てくれ。あの隊長ではどうにも埒が明かない」

 無言で頷いた江文至は、単騎馬を駆って飛び出していった。そして早くも江文至は夕刻に戻ってきた。

 「我が軍は敗走しているようです」

 江文至は表情一つ変えずに報告した。明らかに悲報であるのに江文至は動揺している様子もなかった。

 『肝が太い奴だ……』

 と思いながらも、劉六も比較的落ち着いていた。心のどこかで負けるかもしれないと覚悟はしていたが、それが現実になっても意外と冷静でいられるものだと我が事ながら感心してしまった。

 ともかくも劉六は江文至を連れて隊長に報告することにした。しかし、いるべき天幕には隊長はおらず、兵士達が不安そうにうろうろとしていた。

 「どうしたのだ?」

 「た、隊長が逃げたようです」

 「何?」

 劉六は流石に背筋に冷やりとしたものを感じた。天幕を覗くともぬけの殻であった。

 『味方の敗北を知って逃げ出したのか?』

 そうだとすれば、とんでもないことになる。この場に戦闘を指揮する者がおらず、間もなく敗走する味方と追撃してくる敵軍に飲み込まれることになる。

 「ど、どういたしましょう……」

 兵士が不安そうにこちらを見ていた。不安なのは劉六の方であった。

 「どうしましょうとは私の言葉だ。どうするんだ?我々も撤収するにしても、敵が来るだろうし、無秩序に逃げると損害が大きくなるぞ」

 「はぁ」

 「はぁ、じゃないぞ。隊長に代わって指揮する者はいないのか?」

 兵士達はお互いの顔を見合わせた。

 「誰もいないのか?」

 「はぁ、私達は寄せ集めなもので……。先生、指揮していただけますか?」

 何を言っているのだ、と劉六は思った。いくら寄せ集めとはいえ、彼らこそ兵士ではないのか。

 「馬鹿なことを言うな。私は医者だぞ。兵士の指揮なんてしたこともない」

 「ですが、先生は私らよりも学があります。私らは文字も読めません」

 識字が必ずしも軍事的な素養と直結するとは思えないが、この様子では彼らも一兵も指揮したことがないだろう。要するにここにいるのは軍事の素人の集まりなのだ。

 『時間もないし、無秩序に逃げるわけにもいかん……』

 誰もやらないよりも、自分がやった方がまだましだろう。劉六は渋々決断した。

 「どうなっても知らんからな」

 兵士達は頼るべき人物が出てきて気色を改めた。劉六はため息交じりで頭をかいた。


 劉六はひとまず非戦闘員を千山方面に逃がした。幸いにして負傷兵がいなかったので、足手まといになる存在はなかった。

 「千山に着いたら診療所を開けて、診療の準備をしておいてくれ。おそらくは負傷兵で溢れかえるぞ」

 劉六は先に逃げる僑秋に命じた。彼女は兄のことを心配していたが、そのような状況ではないと知ると、劉六の指示に素直に従った。

 「はい。先生もご無事で」

 「私は医者だ。戦闘をするつもりはないよ」

 僑秋を心配させないためでもあったが、本気で戦闘をするつもりはなかった。

 次に劉六は、兵士達を退却させることにした。

 「余計な武器や兵糧は置いていく。荷物になるし、敵がそれに殺到しているうちに時間を稼げる」

 最低限戦える装備だけで逃げることにした。ただ逃げることだけを目的とする以上、徹底した方がいいというのが劉六の考え方であった。

 この時代、三人の軍事的天才がいたということは先述した。劉六が残りの二人と異なるのは、劉六は徹底して合理的で、あくまでも目的遂行に主眼を置いたことであった。

 同じ撤退するにしても泉国の甲朱関であるならば、撤退すらも大きな戦略の中に組み込むであろうし、極国の譜天であるならば、隙あらば逆襲し、負けを勝ちに逆転させることを考えたであろう。しかし、劉六は逃げると決めた以上、とことん逃げることにした。

 「あとはこれを適当に貼っておいてくれ」

 と言って劉六は、『疫病発生につき封鎖』と書かれた紙を何枚か兵士達に渡した。

 「先生、これは?」

 文字を読めない兵士達は不思議そうに劉六を見た。

 「ちょっとした嘘だ。そんなものでも、敵がちょっとでも混乱してくれればいいんだ」

 打てる手はすべて打つ。そのつもりでやった苦肉の策であったが、これが最大の効果を与えることになるのであった。

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