泰平の階~23~
夜になり、新莽は宴席に招かれた。新莽は条高と横並びの席を用意されており、これは破格の待遇であった。
「遠慮はいらぬ。今宵はどんどん飲め」
条高はやはり上機嫌だった。新莽に対して条高自らが酌をして杯に酒を満たしてくれた。
「これはこれは……」
新莽は恐縮しながらも、美酒美食に舌鼓を打った。これほど美味いものを食べたことも飲んだこともなかった。
新莽と条高は中庭に面して座っている。中庭には舞台が設けられていて、篝火が焚かれている。舞台では次々と音楽が奏でられ、舞が披露された。正直、それら舞台で繰り広げられる歌舞音曲は新莽にとっては非常に退屈なものであった。しかし、条高の手前、欠伸をすることもできず、さも楽しそうな顔を作って見聞きしていた。
「主上、私にもお酌をさせてください」
そこへ目が覚めるような美しい声が天から降ってきた。新莽が見上げると、まさに天女のごとき女性が、瓶を手にした女性がほほ笑んでいた。
「おお、蝶夜か。よいよい、酌をしてやれ」
これが蝶夜か、と新莽は思った。蝶夜のことは新莽も知っていた。条高の愛妾の中で最も美しく妖艶であると言われていた。
「失礼いたします」
蝶夜が新莽のすぐ傍にしゃがみ込むと、目が眩むような良い匂いがした。香を焚き染めたのかもしれないが、女性とはこれほど良い匂いがするのかと驚いた。
「さぁ、新莽様。どうぞ」
新莽が杯を差し出し、蝶夜が酒を注いでくれる。その挙動の美しさに新莽は見惚れてしまった。
「では、ごゆっくり」
注ぎ終わると、蝶夜はすっと立ち上がった。新莽は名残惜しそうに蝶夜を見送った。
「気に入ったのか?」
条高は声を潜めて新莽に囁いた。
「は……ああ……」
否定も肯定もできずに新莽は言葉を濁した。
「ふふ。新莽も男よな」
条高はにやりと笑った。今夜は泊っていけ、と小声で言いながら、条高は美味そうに杯の酒を干した。
酒宴が終わったのは深夜であった。酒には強い方であったが、上機嫌の条高に付き合わされてしこたま飲んでしまった新莽は、気が付けばどこかの寝所に寝かされていた。
「はて……」
目を覚ました新莽は記憶を辿り、純粋にああ酔い潰れたのだと思った。何か条高に無礼なことをしなかったかと不安になっていると、鼻孔を突く豊かな花のような香りがした。
「お目覚めになりましたか?」
はっとして声の方を見ると、蝶夜が妖艶な顔でほほ笑んでいた。蝶夜は薄い絹の寝巻を羽織っているだけであり、豊かな乳房が透けて見えていた。
「蝶夜殿……」
何故ここに条高の愛妾が、と疑問に思うよりも先に蝶夜が新莽にもたれかかってきた。
「蝶夜殿、それはなりません!」
新莽が拒否するよりも先に蝶夜が唇を重ねてきた。蕩ける様な、とはこのことであろうと新莽が知覚した。
そこから先はまさに官能の一刻であった。男として激しく動く体の下で、喜びの嬌声をあげる蝶夜の痴態に興奮した新莽は朝を迎えるまで何度も何度も蝶夜の体を求めた。
朝になって目を覚ましてみると、蝶夜の姿はなかった。
「あれは夢であったか……」
夢であればよし。あの官能的な一夜が夢ではなかったと思うと、新莽はぞっとした。経緯はどうあれ、新莽は条高の愛妾を抱いてしまったのである。露見すれば、新莽が死ぬ程度の事態では済まなくなる。
ともあれ寝所から出た新莽は、条高に暇乞いの挨拶をしようと従者に取次ぎを求めた。従者は、
「主上はまだ就寝中です。挨拶は無用との伝言を預かっております」
と言われたので、新莽はひとまず安堵した。
『やはり夢であったか』
気分を軽くして栄倉宮を出た新莽は、その足で丞相府へと向かった。反乱討伐の打ち合わせをするためである。
新莽が条守全に対面を申し出ると、すぐに会ってくれた。しかし、その場には尊毅もいた。
『何故奴がいる……』
新莽の全身を嫌な予感が駆け巡った。尊毅は条守全の娘を娶っていた。要する条守全は尊毅の岳父なのである。条守全は厳格な人物であるが、娘婿を優遇しないとは限らない。まさか反乱討伐の指揮を尊毅に任せようとしているのではないか。そのような邪推が働いた。
「おお、新莽殿。どうにも困ったことになった」
条守全は新莽を見るなり声を上げた。尊毅はちらっと新莽を見ただけであった。
「困ったこととは?」
「斎公が慶師を脱したは知っておられよう。そのせいなのか分からぬが、慶師の近くで跋扈している赤崔心の勢力が大きくなってきた」
条守全が言うには、現在条国で発生している反乱で大きなものは二つ。ひとつは遥か西の夷西藩。もうひとつは赤崔心の勢力である。
「主上は反乱討伐は新莽に任せよと言うが、二か所で大きな反乱が起こっているとなると、新莽殿ひとりでは無理であろう。それで尊毅殿に相談しておったのだ」
相談とはおそらくは名ばかりで、条守全はどちらかを尊毅に任せるつもりなのであろう。
『縁故をもって抜け駆けするつもりか!』
領地から産出される染料で条高の歓心を買ったのをよそに、新莽は激しく憤った。同時にどちらの討伐を任さられた方がいいかという打算が働いた。
『赤崔心の方がいい!』
夷西藩は遠すぎる。赤崔心の拠点の方がまだ近く、上手くやれば斎治を捕縛することもできるかもしれない。手柄を立てるのなら、間違いなく赤崔心の方だ。
「丞相!私は条公から直々に反乱討伐を仰せつかった!ぜひとも赤崔心の方を任されたい!」
新莽は有無を言わせない力強さで条守全に迫った。条守全は苦虫を噛みつぶしたような顔をし、尊毅は汚物でも見るかのような瞳をしていた。




