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七国春秋  作者: 弥生遼
泰平の階
331/963

泰平の階~11~

 一か月ほどかかって劉六は栄倉にたどり着いた。旅装を解くことなく、適庵の医学校の門を潜った。

 「ほう、貴方が劉六さんか」

 対面した適庵は顔をほころばした。すでに中原に名を轟かす存在になりながらも適庵という人物は鷹揚なところがなく、はるか年下で生徒となる劉六にも丁重であった。

 「はい」

 力強く答えながらも、これが世に名高い適庵先生かと初めて見る動植物を観察するように目の前に座る老人を眺めていた。一見、どこにでもいる好々爺のようであるが、瞳の奥底には尋常ならざる光が宿っているように思えた。

 「一つ聞きますが、どうしてここの門を叩こうと思ったのですか?」

 適庵は入門してくる若者に必ずそう質問してくると言う。それについては千山の師から聞かされていたので劉六は事前に用意していた。

 「私の父は町医者です。私も父の跡を継いで町医者となるために、様々な勉学をして知識を得てきました。その知識の領域をさらに広げることができれば、町医者として多くの人を助けることができるでしょうし、千山だけではなく条国広く役に立つことがあるのではないかと思うのです」

 これは劉六の本心であった。適庵はしきりに頷いていた。

 「それはよい志です。しかし、貴方にとって学問を習うとはそれだけではないでしょう。医学だけではなく、数学や天文学にも随分と精通しているようだ。それらを突き詰めて、貴方は何を見ようとしているのですか?」

 「それは……」

 適庵はやはり鋭かった。劉六には先ほどの述べた志以外にも、学問を突き詰めることに個人的な考えがあった。

 「私はあらゆる学問をすることで真理のようなものが見えてくるのではないかと思っているのです」

 「ほう。真理ですか」

 「はい。この世の真理といえば大げさなのでしょうが、学問をすることでそのようなものが見えてくれば、条国はよりよき国になると思っているのです」

 「ははぁ。なかなか壮大なことを仰る」

 適庵は愉快そうに笑った。馬鹿にしているのではなく、心底感心しているようであった。

 「六さん。私はしがない町医者だ。世間では大層に私のことを評価するが、それほどのことはない。これは謙遜などではなく、本当にそう思っている。私ができることは病に苦しみ、怪我で泣く人を助け、その技術を弟子達に教えているだけだ。それだけのことだ。しかし、それだけのことで人々が救われるのであれば、私にはそれで十分なのだよ」

 適庵は恥ずかしいのか、やや俯きながら言った。この台詞を聞いた瞬間、劉六は適庵についてなんと偉大な人物なのだろうかと思った。名誉富貴を求めず、生涯町医者として過ごすことに誇りを持っている姿は古今の聖人と呼ばれる人達すら霞んでしまうだろう。生涯の師とすべきはこの人だと劉六は改めて思った。

 「ですから六さんが学問から真理を求めたいというのは私の思想とは随分と異なる。しかし、それも学問の一つの形なのは間違いないようだ。六さん、私は残念ながら医術しか教えることはできない。数学は多少できるが、天文学はさっぱりだ。それでよければ私の門下に入ってください」

 「勿論。よろこんで入学させていただきます」

 二人は向かい合いながらお互いに頭を下げた。


 適庵の医学校での授業はその日から始まった。と言っても、入学早々の劉六は適庵から直々に教えてもらえるわけではなく、上級生から教えてもらうこととなった。適庵の医学校では下級、中級、上級の三つの組に分かれていて、三か月に一度行われる試験によって上の組に昇格することができた。またその試験で悪ければ降格もありえ、学生達は昇格を目指し、寝るのも惜しんで勉強に励んでいた。

 「とにかく励むことだ。勉学に近道はない。励みに励んで早く上級に上がって適庵先生に教えてもらうのだぞ」

 下級の教授を務めるのは上級組の生徒である。彼はそう言って下級組の生徒を激励した。劉六も必死になって勉強した。もともと千山の師に教わったことも多く、父の手伝いで実務にも精通していたので、劉六は最初の試験で中級にあがり、上級には二度目の試験で昇格することができた。

 「うん。六さんはすぐに上がってくると思ったよ」

 一年を待たずして上級組に姿を見せた劉六を見て適庵は嬉しそうにほほ笑んだ。

 劉六は心待ちにしていた適庵の授業を受けた。適庵の口から発せられる一言一言が耳から離れられず、劉六は危うく涙しそうであった。

 『先生の授業にこそ医術の真理があるのではないか』

 劉六はそのように感じた。やはりこの人も門下に入ってよかったそう思えた。

 そして、適庵も劉六に対して教えを請うことがあった。

 「どうにも数理については六さんの方が上だ。色々と教えて欲しい」

 適庵は恥じ入ることなく、劉六に教えを求めた。普通、適庵ほどの名声を得ると、他者に教えを請うことなどできぬことであった。しかし、適庵と言う人物はそれができた。素直に自分に足らぬところを認め、どん欲に知識を吸収して自己の糧にしようとしている。とても真似できることではなかった。

 後に劉六は適庵の医学校での日々を、人生で最良の日々と語っている。確かに彼のその後の人生を考えれば、実に平穏な時間であった。

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