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七国春秋  作者: 弥生遼
泰平の階
328/959

泰平の階~8~

 栄倉宮に到着した尊毅は単身で宮殿の門を潜った。尊家の頭首である尊毅のみが宮殿に入ることができ、尊夏燐は妹であっても尊毅の家臣扱いなので入ることができず、家宰の項史直も同様であった。

 案内されて朝堂に赴くと、すでに新莽がいた。尊毅よりも五歳ほど年上の新莽は、一瞬だけ尊毅と目が合うと不機嫌そうにそっぽを向いた。新莽は武人としての名声は高かったが、人間的には偏狭なところがあった。特に他者に対する好悪が激しく、敵も多かった。

 『あれは岩石に目鼻がついたような男だ』

 新莽をそう評したのは尊夏燐であった。甚だ失礼な人物評だが、言い得て妙だとは思った。無骨そのものの容姿は、戦場に立ては敵を威圧できるだろう。しかし、好まれる容姿であるかどうか問われれば、尊毅も即座に否定しただろう。

 「揃いましたな」

 尊毅が座ると、円洞が従者に条高を呼びに行かせた。しばらくすると条高がゆっくりと入ってきた。

 「この度は尊家と新家の諍いをこの場で裁くこととなった。本来であれば、六官の卿が協議して裁定すべきことであるが、主上の格別の計らいにより、こうして朝堂で行われることとなった。双方、感謝すると同時に主命には従うように」

 円洞が尤もらしい口上を述べた。なるほどと尊毅は思った。条高が下した裁定となれば尊毅も新莽も逆らうことはできない。今後、両家が争うことないようにする布石であった。

 『面倒なことだ』

 尊毅としては争うのは面倒なだけであった。これで解決するのであれば喜ばしいことであったが、だからと言って尊家の頭首として新家の風下に立つわけにはいかなかった。それもまた面倒なことであった。

 円洞が言い終わると、いきなり新莽が大きな声で言い分を主張し始めた。主張する内容は客観性に乏しく、挙句には尊毅に対する罵詈雑言に及んだ。

 『聞くに堪えないとはこのことだな』

 自分の悪口を言われているに尊毅は腹が立つことはなかった。よくもあれほど他人のことを罵れるものだと感心していた。市井の人ならいざ知らず、人の上に立つ者としてこれはあるまじき言動ではなかった。まさに新莽が他者から反感を買う原因であろう。丞相の条守全などは露骨に顔をしかめていた。

 「……新莽の言い分は分かった。では、尊毅の言い分を聞こう」

 円洞に促され尊毅は自説を披露した。理路整然とした、異論の余地がない自負があった。

 「私からは以上です」

 言い終わった尊毅は、条高の様子を窺った。条高はつまらなそうに眼を閉じ、鼻をほじっていた。

 「さてさて……どう裁定すべきか……」

 困惑気味に条守全も条高を見た。視線に気が付いた条高はひとつ咳払いをした。

 「余にはどうにも分からぬな……。そうじゃ!」

 条高は手を打つと、従者に何事か命じた。しばらくして従者が紙と筆と、そして複数の染料の入った皿を尊毅と新莽の前にそれぞれひとつずつ置いた。

 「余には政治のことは分からぬ。しかし、絵のことは分かる。そこでだ、二人には絵を描いてもらう」

 朝堂全体が絶句しているのが尊毅には分かった。他ならぬ尊毅も絶句した。

 「絵は心を移す鏡だ。善き心を持った者が描く絵には清さが反映され、悪しき心を持った者の描いた絵には黒く淀んだものがある。それで判別する」

 「しかし、主上。それでは……」

 条守全が何事か言おうとしたが、条高は完全に無視して続けた。

 「題材はそうだな……。おお、そういえば先ほど厨房の者が極上の川魚を入手したと言っていたな。では、二人には美味そうな川魚を描いてもらおう」

 さぁ描くがいい、と条高が促した。こんな茶番、付き合うべきかどうか迷っていると、隣では新莽がすでに筆を取っていた。

 『川魚だと……』

 自身も慌てて筆を取った尊毅は困惑した。まさか栄倉宮の条高の面前で絵を描くことになろうとは想像もしていなかったことであるし、いざ川魚の絵を描けと言われても、絵心などない尊毅には実際にそのものがないと描けるはずもなかった。

 『いや、あったとしても描けるはずもない』

 尊毅はちらりと隣の新莽を見た。少し離れているのでどのような絵を描いているかまでは分からなかったが、快調に筆を進めているように見えた。

 『ええい!知ったことか!』

 こうなれば尊毅も描くしかなかった。このようなもので判定されたところで、条高以外は納得しまい。あとで異を唱えればいい。そのぐらいの覚悟で尊毅は自らも想像上の川魚を紙に描いていった。


 一刻後、尊毅も新莽もほぼ同時に筆を置いた。

 「どれ、見せてみよ」

 条高が言うと、二人はをあげた。同時に周囲から失笑がも漏れた。自分でいうのも変だが、尊毅の絵は相当ひどいものであった。ちらりと新莽の絵を見てみると、こちらも相当ひどかった。円洞は明らかに笑いをかみ殺しており、条守全は顔に手を当てて表情を隠していた。

 「ふむ。それにしても二人とも下手だなぁ」

 条高は間近で見ようと二人に近づいてきた。腕を組み二人の絵を交互にじっと見つめていたが、決して笑ってはいなかった。

 「新莽の絵は武人らしい性格をよく表している。力強い線に迫力のある眼。しかし、これでは川魚の繊細さが微塵も感じられない。美味そうではないな」

 新莽はやや肩を落とした。条高に酷評され、負けを確信したかもしれない。

 「尊毅の方も性格を表しているな。線が細いから全体的に小ぶりな魚になっている。いかにも川魚らしいが、彩色がよろしくない。生気のない色だ。これも美味そうではない」

 条高は言うだけ言って席に戻っていった。

 「裁定は言うまでもない。二人とも失格だ。川魚とはこう描くものだ」

 実は二人が必死に川魚を描いている間、条高も同じ題材の絵を描いていた。見事な川魚の絵である。笊の上に乗せられた一匹の川魚は、今にも跳ね上がりそうないきの良さがあった。

 「どうだな。何も見ずして物を描くというのは難しかろう。実際に何も見ずに、断片的な情報やかつて見たという程度の情報では正確に描くことはできない」

 条高は椅子の後ろから笊を取り出した。そこには条高が描いた絵とうり二つの川魚が乗せられていた。

 「余はお前達よりも絵については心得がある。それでも実際にこれを見なければ、ここまでの絵を描くことはできない。絵とはそれほど難しいものだ」

 ここにきて尊毅は条高の真意に気が付いた。非常に遠回しであるが、尊毅と新莽の領土争いのことを言っているのだ。尊毅も新莽も実際に争いがあった現場を見てない。見てもいないのに口争いをしている愚を絵画という形で分からせようとしているのだ。

 『世間では凡愚と言われているが、なかなかどうして……』

 非常に回りくどいやり方ではあるが、面と向かって命じられるよりも角が立たないし、絵を描いている間、尊毅は幾分か冷静になることができた。領民達の小競り合いに、領主が首を突っ込むなど愚の骨頂であるように思えてきた。

 それは新莽もほぼ同様のようであり、気まずそうな顔をこちらに向けていた。

 「余からは以上だ。以後、丞相とも相談して、仲良い形で決着せよ」

 仲良きことが一番だ、と言って条高は甲高く笑った。


 これを機に尊家と新家は和解することになった。このことが後の条国の運命に影響を及ぼすことになるのだが、余人の予測できることではなかった。

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