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七国春秋  作者: 弥生遼
寂寞の海
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寂寞の海~52~

 夜の闇に紛れ、章理達は敗走した。敵陣を脱出した時は五十名ほどいた兵士も、時が経つにつれて一人二人と減っていき、今となっては三十名ほどとなっていた。

 「負けたか……」

 矢傷を負った章理であったが、簡単な治療を受けただけで、騎馬に乗って敗走を続けていた。

 「負けはしましたが、まだ機会はあります。しばらくは雌伏し、章海に綻びが生まれるのを待ちましょう」

 左文忠も傷だらけであった。彼だけではない。他の将兵も疲労なく無傷なものなどいなかった。それでも一歩でも先を歩き、捲土重来を期すことを願っている彼らの活力に頭を下がる思いであった。

 『私もしっかりとせねば……』

 章理がそう思った瞬間であった。全身に強い痺れと激痛が走り、手綱を握る手に力が入らなくなった。まずいと感じた時には章理は落馬していた。

 「章理様!」

 左文忠の声がかろうじて聞こえただけで、章理は意識を失った。


 混濁とした意識の中、目を開いてみると、見知らぬ天井が広がっていた。しみだらけの狭い汚い天井である。章理がどこかの山小屋かと思っていると、体がまるで動かないことに気が付いた。

 「章理様。お気づきになりましたか」

 「文忠か……」

 「近くに小屋を見つけましたので、そこにお運びしました。しばらく休憩致しましょう」

 左文忠は労わってくれるが、自分の体のことはよく分かっていた。全身が痛み、全身から力が抜けていく。もう自分は長くないだろう。

 「私の体はあとどれぐらもつだろうか……」

 「弱気なことを。泉国へ参りましょう。泉国ならしっかりと治療も受けられましょう」

 「無理だな。体が航海に耐えられまい」

 それにこのような惨めな姿を泉公―樹弘に見られたくなかった。

 「私はもう長くはないだろう。亡骸は晒したくない。棺に入れて海に沈めてくれ」

 左文忠は言葉なく落涙した。彼もまた章理の死期が近づきつつあることを覚悟しているようであった。

 「文忠は泉国に行き、事の顛末を季と泉公に話してくれ。それと私の髪を切り、それを形見として季に渡して欲しい。他の者は武器を捨て、元の生活に戻れ。叔父上もお前達まで血眼になって探し出し、罰を与えることはしないだろう」

 章理は自分は遺言を言っているのだろうと思った。そうであるならば、言わねばならぬことはまだあった。

 「文忠、泉国へ行けば伝えてほしい。季には泉国で平穏に過ごして欲しい。私みたいにはなるな」

 もはや章平と章穂の血を受け継ぐのは章季しかいなくなる。血脈をつなぐということであれば、章季に生きてもらわなければならない。それに章季には姉にできなかった穏やかな日々を過ごして欲しかった。

 「それと泉公にも伝えて欲しい……。お世話になりました、ありがとうございます、と」

 もっと他に言うべきことがあったのかもしれない。だが、すでに愛を伝え、別れを告げてきた以上、何を言っても蛇足となるだろう。

 『これでいい……』

 章理は満足していた。戦いに敗れ、死にゆく運命にあったとしても、章理は思い返してみても満足のいく人生であった。最期に最愛の人に出会え、愛を伝えられたのだ。十分に幸せであろう。

 『私が選んだ結果だ。残念ではあるが、悔いはない』

 印国で政治することを志したが、それについては叶えられないままに終わる。だが、今となっては些末なことであろう。負けはしたが、章家の人間として筋は通したし、この世に名を遺すことはできた。

 『心残りなど……』

 涙が溢れてきた。きっとこれが最期に流す涙なのだからと、章理は感情に身を任せた泣き続けた。


 章理が亡くなったのはそれから二日後のことであった。章理の希望通り、亡骸は棺に納められ、海に沈められた。そして、生き残った将兵達によってその死が印国全土に伝えられた。これも章理が希望したことであった。

 そうすることによって、章理を旗頭にして蜂起した者達の矛先を収めさせることが目的であり、事実これを最後に印国の内乱は一応の終了を見ることになった。

 そしてもう一つ目的があった。それは章理が章海によって殺されたことを世に知らせることで、章海の名を貶めることであった。死にゆく章理が章海に対して行ったささやかな抵抗であり、最後の攻撃であった。

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