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七国春秋  作者: 弥生遼
寂寞の海
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寂寞の海~46~

 章理が部屋に戻ると、まだ章季は起きていた。姉が樹弘と何を話してきたかおおよそは察しているのか、緊張の面持ちで章理が喋り出すのをじっと待っていた。

 「泉公と話してきた」

 章理は章季の隣に座った。章季は、はいと頷いた。

 「左堅との話は聞いていたな。私は印国に戻る。叔父上を倒し、章友の仇を取る」

 章季がじっと章理から視線を外さなかった。それでいいのか、と問いたい雰囲気であったが、口にはしなかった。

 「あの叔父上と敵対して勝てるかどうかは分からない。でも、ここでやらなければ、章友も浮かばれまい」

 「姉さんは人身御供になるおつもりですか?」

 章季は章理が決断した理由を明敏に察しているであろう。左堅達が自分を担ぎ出さないために姉が犠牲になる。章季はその姉の決断に対して心から賛同しているわけではなさそうだった。

 「そんなつもりはないよ。私はまだ死ぬつもりはない。叔父上を討って、私が国主になる」

 それだけのことだ、と章理は言った。

 「では、私も一緒に参ります」

 「季はもう少し泉公のもとにいてくれ。私が国主になれば、迎いをやるから」

 「ですが……」

 「もし万が一、本当に万が一、私が倒れた場合は、仇を討とうと思うな。泉国で健やかに暮らすがいい。それについては泉公に頼んでおいた」

 「姉さん!姉さんだけにそんな過酷なことを……」

 「私は姉だ。章家の長子としての責務を果たすだけだ。もし章家の命脈が過酷さを強いているとするならば、私で終わりにしたい。お前までが犠牲になることはない」

 「姉さん!」

 章季は姉に縋りついた。縋りついて泣いた。どのような結果が待っているにしろ、もうこうして姉妹が抱擁することはないであろう。章理はそう思うと、妹には知られないように薄っすらと涙を流した。


 翌朝。章理は改めて樹弘と面会し、印国に戻ることを告げた。樹弘以外にも景朱麗や甲元亀といった閣僚達も顔を揃え、章理側の人間として左堅もその場にいた。

 ここでの両者の対面は非常に短いものであった。すでに濃密な別れを済ませている樹弘と章理からすれば、今のこの時間は未練を増すだけであるとの自覚があったので、二人とも実に素っ気ないやり取りで終わった。

 樹弘は旅立つ章理を見送ることもしなかった。ただ多数の兵糧と武具を与え、樹弘ができる最大限の好意を示した。好意はそれだけではなく、洛鵬まで見送りの使者として甲朱関を章理に同行させた。道中、章理は甲朱関より戦略戦術について様々なことを教わることになり、事実としてそれは印国に上陸してからの章理を大いに助けることになった。

 「章理殿は勝てるでしょうか?」

 章理が泉春を去ると、景朱麗は樹弘に問いかけた。

 「朱関の知恵を章理さんが十分に理解して発揮できれば、五分というところまで持っていけるだろう」

 あくまでも樹弘の分析は冷静であった。景朱麗は、その冷静さを頼もしく思う一方で、情のなさは樹弘らしくないとも思った。

 「それならば、お止めすべきだったのではないですか?」

 さらに問う景朱麗に樹弘は厳しい視線を向けた。

 「章理さんが選んだ道だ。それを止めることは僕にはできない」

 「そうですが……」

 それならば兵糧や武具だけではなく、せめて三百名程度の兵力を貸せればと景朱麗は思うのだが、泉国が海軍を持っていない以上、それだけの兵力を輸送する術がなかった。

 「もう僕らにはできることはない。できるのは章季さんを守ることだけだ」

 樹弘は悔しそうに拳を握り締めていた。おそらくは一番歯がゆく思っているのは樹弘なのだろう。

 『どちらにしろこれで主上と章理殿の婚儀はなくなった……』

 そう思ってしまった景朱麗は、すぐに己の浅ましさを恥じた。章理の過酷なこれからを思えば、景朱麗の思慮はあまりにも底が浅かった。

 「朱麗さん?どうしました?」

 「いえ、別に……」

 「僕はね、朱麗さん。今回の事で国家を維持してくことがいかに難しいかを学んだ気がするんだ」

 突然、樹弘が話の矛先を変えてきた。景朱麗は黙って樹弘が続きを語るのを待った。

 「平穏だった印国がわずかな間で大混乱に陥った。その萌芽はずっとあったのかもしれないけど、転がり始めるとあっという間だし、止めることもできない」

 はい、と景朱麗は相槌を打った。樹弘は、印国でのことを決して隣国での景色として見ておらず、自国にも起こるかもしれないという自戒を持ち続けていた。

 「章穂殿は聡明であった。しかし、結果として自分の国を混乱に導いてしまった。章海もそうだ。あれだけの才人でありながら、片腕とも言うべき丞相を殺害してしまった。結局、国家というものは、君主一人が英明でも仕方がないのだ。君主と家臣とそして国民の、信頼し合える固い紐帯こそが一番大事なんだ」

 「まさに、主上の仰る通りです」

 「うん。朱麗さんも協力してくれるよね」

 樹弘が立ち止まり、じっと景朱麗の顔を見つめた。

 「も、勿論です。主上」

 景朱麗が即答すると、樹弘はようやく嬉しそうにはにかんだ。

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