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七国春秋  作者: 弥生遼
寂寞の海
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寂寞の海~32~

 禁軍降伏の報は鑑京に衝撃を与えた。国都を守る戦力がほとんどなくなったことを意味し、閣僚官吏は勿論、民衆達も大いに狼狽した。とりわけ張鹿の動揺は激しく、もはや自制心を忘れて勝手に勅諚を乱発するようになった。その様子を見て閣僚や官吏達も、

 『所詮は祐筆あがりで政治も軍事も知らぬ男だ』

 と張鹿のことを侮蔑し、見切りをつけようとしていた。

 それでも張鹿は、南部に駐屯している兵士をかき集めて、対抗できるだけの軍を組織した。その数は二千名。章海の反乱軍の倍の数をとりあえずは集めることができた。

 この間、章理は沈黙を守っていた。自分が何かを発言したところで、潮流を変えることなどできないのを彼女は知っていた。しかし、章友が自ら出陣すると聞くと、黙っていることができなくなくなり、章友の私室に乗り込んだ。

 「主上、出陣するのはおやめください。軍の指揮は将軍なり丞相にお任せください」

 章理が駆けつけると、すでに章友は鎧の身を包んでいた。貧相な体つきをしている章友には鎧姿は全く似合っていなかった。

 「そうもいかん。余が討伐の勅許を出したのだ。余が行くべきであろう」

 章友はわずかに息切れしていた。着慣れぬ鎧がよほど重いのだろう。どうせお飾りにはなるだろうが、そのような状態で戦場に立っていられるはずがなかった。

 「国主とは家臣に命じ、泰然として結果を待つものです。ここは鎧を脱いで吉報をお待ちください」

 戦場で役に立たぬだけならまだしも、足を引っ張りかねない。挙句に命でも落とすようなことでもあれば、目も当てられない賛辞である。

 「泉公は自ら先頭に立って味方の兵士を叱咤激励し、時には自ら剣を振るったというではないか」

 自分にもそれができると言わんばかりの言い草に章理は少し腹が立った。章友が樹弘と同格であるなどと思っていることが片腹痛かった。

 「泉公には泉公のやり方がありましょう。主上には主上に相応しいやり方を」

 「余は国主ぞ!国主に意見するか!」

 章友はきんとした声を荒げた。章理はこれには驚かされた。章友のこのような声を聞くのは初めてであった。だが、売り言葉かに買い言葉。章理もむっとして声をあげた。

 「姉として注進しているだけだ!」 

 「いらぬ小言だ!姉上も私にくどくどと言うのか!母上みたいに!私は……」

 章友はよろりと立ち上がり、机の上に置いてあった兜を掴み、床にたたきつけた。


 「私は国主などにはなりたくなかった!」


 無機質な金属がすると、兜は一度跳ねただけで、床をごろごろと転がっていった。

 「友……」

 「私は国主に相応しいだけの知性も徳も持っていない。そんなことは知っている。でも、母上は私に国主になれ国主になれと執拗だった。私の気持ちなどお構いなしに。それがどれだけ苦痛か姉上には分かるか?」

 章理はただただ絶句するだけであった。弟がそのように考えていたとはまるで知らなかった。

 「だから私が阿呆であれば、母上も諦めるだろうと思っていたが、それでも私に強いてきた。私は母上がただただ憎かった」

 「それで母上が亡くなった時にあのような暴言を……」

 章友は膝をつき、泣き始めた。章理はこの時になって初めて弟の苦悩を知った。嫡男であり、母から愛されていたというだけで国主になることを半ば約束されていた弟に、章理は嫉妬すら感じることもあった。しかし、そのことが章友を苦しめ、追い詰めていったことに気づいてやることができなかった。

 『私も底が浅かったか……』

 章理は後悔した。もっと早く気が付いてやれれば、章友も苦しみから解放され、印国も今のような状況にはならなかっただろう。後悔の念を抱いた章理が、これからできることは多くなかった。

 「友、私に国主を譲れ」

 章理は真面目に言った。章友を救い、印国を救うにはそれしかなかった。自惚れではないが、自分であるならばこの事態を収束させることができる。少なくとも、その作業の煩わしさから章友を解放してやることができる。

 「私は姉としてお前の苦しみに気がついてやれなかった。許して欲しい。だから今できることはお前をその苦しみから救ってやることだ。後は私に任せろ」

 章友は一瞬穏やかな表情になった。これで救われる、と言わんばかりであったが、すぐに悲し気に章理から顔をそむけた。

 「姉上、私も男です。恥というものを多少なりとも知っています」

 はっとさせられた。わずかであるが、章友も国主の座にいたのである。困難が降りかかってきたからといって姉に国主の座を譲っては逃げたと思われてしまう。その屈辱は、国主であるかどうか以前の問題であった。

 「そうか……済まない」

 章理としても章友の男としての矜持は理解できたので、それ以上は何も言うまいと思った。章友も何も言わず、兜を拾い上げた。


 章友の出陣は多少なりとも討伐軍の士気をあげた。中には章友のことを見直す将兵もおり、それだけでも章友の存在には意義があった。

 討伐軍は北上し、黒原まで到達した。黒原近郊には反乱軍の将軍銀芳が二百名ほどの兵士を従えて陣取っといた。討伐軍はこれを散々に打ち破った。人数に圧倒的な差もあったが、討伐軍の戦闘行動は秩序的で、寄せ集めの割には軍として統率が取れていた。

 討伐軍を実質的に指揮するのは左昇運。左堅の息子であり、彼は父と同じ道を行かず武人となっていた。小さい頃から武勇に優れ、初陣の盗賊退治では五つの盗賊の首を挙げていた。戦闘指揮もまずくなく、人望もあったので他の将兵も素直に彼に従っていた。

 また章友も、将兵の士気をあげるのに十分な働きをしていた。と言っても章友は何もしていない。陣中にあってじっと座っているだけなのだが、敵兵の声が近づいてきても動じることなく、ただ武者人形のように表情を変えず座り続けていた。

 『存外、度胸がある』

 将兵達は章友を見直していた。これならば兵数で圧倒する討伐軍が負けるはずがない、という安心感が全軍に広がり、黒原での勝利につながった。

 だが、章友の傍にあって全軍を指揮していた左昇運は違う感想を持った。

 『この人は自分では何もできぬのだ』

 個人としての意思がない、とも言えよう。要するに左昇運が動けと言えば動くであろうし、動くなと言えば梃子でも動かないだろう。自分が軍を指揮する意思など勿論なく、ただこの奔流に身を委ねているだけのように思われた。

 『軍の指揮に口を挟まないだけましだが……』

 国主としてそれでいいのか、という現状とは別の命題について左昇運は思わざるを得なかった。

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