寂寞の海~31~
禁軍が鑑京を進発した。章友から出された勅許の内容を知った章理は憤然とした。
「こんな馬鹿な話があるものですか!」
もし本当に章海と松顔が謀反を企んでいたとするなら、この措置は間違いではない。しかし、二人の罪状は未だ明らかではない以上、討伐するなどもっての外であった。
「姉さん、どうしてこんなことに……」
章季もいかに危険な事態になっているか分かっていた。しかし、彼女からすると事態の変遷はあまりにも奇々怪々で思考が及ばなかった。
「奇々怪々。まさにそうです。今や鑑京は魑魅魍魎の住処です」
章理からすれば、章友と張鹿はまさに混沌が生み出したあやかしであった。いや、二人だけではない。章海と松顔もまた複雑な政治的状況から産声をあげた怪物のようなものであった。
「ここまでのことは叔父上と松顔が描いた絵図面のはずです。主上と張鹿は二人に乗せられたのです」
「どういうことですか?」
「叔父上と松顔は、主上と張鹿の方から戦争を仕掛けさせたのです。二人の罪状が明らかでない以上、その方が世間の同情を買うことができるからです」
章理は事態の真相をほぼ正確に理解していた。それだけではなく、章友があのような調子では、章海の味方する者も続出してくるだろうと予測していた。
『叔父上は昔から国主への野心があった……』
章理は叔父である章海のことをそう見ていた。父である章平が亡くなった時も、母である章穂が亡くなった時も、自分に国主が回ってくるに違いないと思っていたはずだ。章海ほどの才人であるならば、そのように自惚れてもおかしくないと章理は考えていた。
『叔父上は私とよく似ている……』
章理も自分の才能というものに自信を持っているし、自惚れもある。それだけに章海の心情がよく分かった。
「姉さん、今すぐに兄上……主上にお会いしてお諫め申し上げましょう。このままでは内乱になってしまいます」
章季は袖口を掴んだが、章理は動かなかった。軍を発してしまった以上、禁軍が章海と松顔に軍を向けたという事実を消すことはできない。仮に軍を呼び戻すことができたとしても、章海と松顔は無実の罪で軍を向けられたと声高に叫ぶだけであろう。章理が動いたところで、坂道を転がり出した車輪を止めることはできなかった。
「内乱ならもう始まっている」
今は静観する以外にないことが歯がゆかった。一層のこと、禁軍が章海と松顔を屠ってくれた方が混乱が少なくて済むと章理は考えていた。
鑑京を出発した禁軍は五百名。いずれも精鋭と言われる兵士ばかりであったが、士気はあがらなかった。禁軍は宮殿に近い場所に駐屯しているだけに、宮殿における政争に自分達が利用されていることを快く思っていなかった。
『あの凡愚が聡明な章海様を恐れて無実の罪をでっちあげて討伐しようとしているのだ』
という風説が広がっていた。禁軍の中で章友の評判はすこぶる悪く、多くの兵士達がその風説を信じ、章海達に同情した。勿論、これも宮殿に残る章海派が工作してのことであった。
章海と松顔は禁軍が迫ってくると知ると、黒原から脱出した。黒原には二人を慕う者達が集まり一大勢力とうなっていたが、章海が、
「黒原を戦いに巻き込むわけにはいかない」
という理由で、戦うことに反対したのであった。黒原には章海を慕う民衆が多く、章海の言動に一様に感激した。
章海と松顔はさらに北に走り、最北端の邑である北鑑へと向かった。印国における第三の邑と言われる北鑑に拠点を移したのには理由があった。他ならぬ松顔の所領が近くにあり、従って松顔に心寄せる民衆も多かった。それに加えて北鑑の邑は高い城壁に囲まれていたため、軍事拠点としては申し分がなかった。ここでようやく章海と松顔は反抗の旗色を鮮明にした。
「我らは何の咎もなく、張鹿の姦計によって討伐の憂き目にあった。主に反抗することは心苦しいことであるが、不義のために死ぬぐらいであるならば私は正義のために戦って死ぬ」
章海が個人として自立を表明した。同時に章海は檄文を各地に飛ばし、協力を求めた。経緯を知る者達は章海に同情的であり、尚且つ章海が主上となる国家に期待した。
『あの盆暗が国主では印国の未来は暗い。章海様こそ主上に相応しい!』
『張鹿は偽勅を乱発して国家を歪めた。それを許した主上にも責任はある』
『そもそも章穂様が国主になった時も偽勅が出されたという。今の鑑京に正義はない!』
章海の巧みさは張鹿を完全な悪役に仕立て上げたことであった。それに世間に知られている章友の愚鈍さが加われば、どちらに与するべきか問われるまでもなく、多くの人々が北鑑に集った。禁軍が北鑑に到達するまでにその数は五百名に達していた。
ここで張鹿は禁軍を呼び戻すべきであった。数で劣勢になった以上、編成を立て直す必要があり、世論工作をする必要もあったであろう。しかし、張鹿は戦略家としては稚拙であった。そのまま北進を命じた。
このことが悲劇となった。北進を命じられた禁軍は、章海軍と戦う気力をなくし、そのまま章海に投降してしまったのである。




