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七国春秋  作者: 弥生遼
寂寞の海
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寂寞の海~28~

 現役の丞相が閣僚の一人によって宮殿で刺殺されるというのは、どの国でもあまり例のない大事件であった。事件自体、閣僚達に衝撃を与えたのだが、彼からするとそのことよりも差し迫った問題が存在していた。次の丞相を誰にするか、ということである。

 「主上が朝議にお出にならないとなれば、我らが合議の上で丞相を決めるほかありません」

 丞相である藤元亡き後、ひとまず朝議の主導権を握ったのは張鹿であった。彼が最も章友に近い立場にあるためであったが、同時に苦しい立場にもあった。今の朝堂において張鹿に近しい者は少ない。合議となれば、張鹿は自分と意見を同じくする多数派工作ができなくなってしまう。そうなれば、閣僚から放り出されてしまう可能性もあった。

 『主上が私を丞相に任命してくれれば……』

 丞相の任命権は国主にある。そのため章友が朝議の場で、丞相を張鹿にする、と宣言すればなんら問題なく、松顔なども面と向かって異を唱えることもできないだろう。しかし、章友は相変わらず朝議に一切出席せず、私室で侍女達を相手に巷ではやっている札遊びをしているらしい。

 「丞相が宮殿で殺されるなどというのは前代未聞であり、人臣は動揺しておる。ここは章海様に丞相になっていただき、混乱を収束していただくべきかと思うが如何」

 真っ先に口を開いたのは松顔であった。張鹿は苦り切った顔をした。松顔の主張が最も妥当であり、異論を挟む者は少ないであろう。しかし、章海が丞相となれば、自分は閣僚の地位から排斥されるのではないか、という恐怖心が張鹿にはあった。

 『私は章穂様の近くに居過ぎたか……』

 今更ながらに張鹿はそのことを悔いた。章穂を国主にするための陰謀を巡らした時以来、章海に恨まれる存在になっていてもおかしくはなかった。

 「章海様のご意見は?」

 ここで左堅が発言した。閣僚の中でも重鎮の地位にある彼は、張鹿とも松顔とも距離を取っていた。

 「松顔殿のお言葉、ありがたく思うが、私はしばらく無位無官で政治からも遠く離れていた。丞相は他の方がよいと考えているが……」

 張鹿は意外に思った。長年、溢れんばかりの才能を有しながらも、印国の政治の場から遠ざかっていた章海ならば、丞相の地位を打診されれば即座に頷くと思っていた。

 『存外、欲のないお人なのかもしれない……』

 若いうちに鑑京を出て世俗から離れただけのことはある。張鹿は一安心して松顔を見てみると、やや悔しそうな顔をしていた。

 「では、章海様は誰が相応しいと思われますか?」

 左堅が問うと、章海は即答した。

 「張鹿殿がよろしいかと。閣僚としての経験もございますし、何よりも先代や主上の信認が厚かったお方。これ以上相応しいお方はおりますまい」

 これも意外であった。章海が自分のことなど推挙するはずがないと思っていただけに、張鹿にとってこれほど心強いものはなかった。

 「章海様……それは……」

 松顔は困惑した。松顔からすると章海は同調してくれると思っていたのだろうか。張鹿はほくそ笑んだ。

 『松顔には人望がない』

 勝ったと張鹿は思った。章海が張鹿こそ丞相に相応しいと言った以上、これに異論を唱える者がいるはずもなかった。こうして張鹿は閣僚の合意により丞相となり、祐筆から人臣の頂点を極めた。しかし、それが悲劇への始まりでもあった。


 丞相となった張鹿は、その喜びをかみしめる間もなかった。丞相としての仕事が山積していて、多忙を極めていた。

 『藤元殿はこれほどの仕事を捌いていたのか……』

 驚くほかなかった。張鹿から見て藤元という丞相は並以下だと思っており、これほどの仕事の量を捌ける才人であるようにはとても見えなかった。

 あまりのことに張鹿が官吏達に追及したところ、思わぬことが判明した。藤元が丞相であった頃、様々な政治的案件や行政的な処理は六官の卿や閣僚達が分担して行っていた。しかし、張鹿が丞相となると、

 『それは丞相のご裁可を取るべきではないか?』

 『その案件については丞相にお任せせよ』

 今まで自分達が行っていた仕事を、悉く張鹿に回すようになったのである。

 『これは嵌められたか……』

 仕事を集中させられているのはそれだけ才能を評価されて信頼されている、と自惚れるほど張鹿は愚鈍ではない。これは他の閣僚達による明らかな苛めであった。張鹿は心身が破綻する前に、叫ぶように閣僚達に訴え出た。

 「これまで分担していた仕事を何故私にばかり回してくるのだ!」

 張鹿は高圧的に言い放った。その態度に面白くないとばかりに顔をしかめる者もいれば、薄ら笑いを浮かべる者もいた。

 「これは異な事を言う。我らは張鹿殿のことを高く評価しているのだ。それで仕事ができぬのであれば、丞相の印璽を置いてここから去れ!」

 舌鋒鋭く張鹿を批判したのは章海であった。章海は自分を丞相に推してくれた人物なだけに、張鹿もやり辛かった。

 『まさか章海様も松顔の仲間か……』

 そうなればいかにも分が悪い。それでも張鹿は後に引けなかった。

 「仕事ができぬと申しておるのではありません。ただこれまでどおりに分担していただきたいと……」

 「では丞相は六官の卿や他の閣僚達が意図的に怠けているとでも仰るか?」

 「そういうわけでは……」

 弁舌では章海には勝てそうもなかった。張鹿はこの場で争うことの無意味さを悟るだけであった。

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