黄昏の泉~29~
相蓮子が泉春にやって来たのは、樹弘と遭遇する二日前のことであった。
相蓮子だけではなく、北方を守る相宗如も、二ヶ月に一度は泉春へと帰還し、父である相房へのご機嫌伺いと国境周辺の状況報告を行っていた。これは相房が課したことであった。
『今や泉国の命運は我ら相家にかかっている。相家の者が結束するためにもそのような会合が必要であろう』
相房は子供達に趣旨をそのように説明したが、本心は別にあった。
『誰が後継者に相応しいか』
というのを見極めるためであった。相房はすでに後継として長兄である相史博を指名していたが、内外に公表していなかった。あくまでも相家内部でのことであり、実際には後継者についてはまだ相房は迷っていた。
『史博では心許ない……』
相史博は絵に描いたような無能者であった。彼は現在、犯罪の取り締まりなどを行う官警の長である警執という役職にある。同時に左大将という軍人としての最高位にもあった。ただそれらの地位にあるのは相房の息子だからというだけであり、その才覚を認められてのことではなかった。
『無能なだけならまだいい。あいつは自らが無能であることに気がついておらず、他者を退けることだ』
相房はそう認識していた。これは相房の弟であり丞相でもある相淵も同意見であった。
『国主が必ずしも聡明である必要はありません。要するに自己の能力の限界を知り、延臣を広く用いることにあります。そういう意味では不可でありましょう』
相淵の相史博評は辛辣であった。おそらく相史博が聞けば卒倒するか、怒りのあまり我を忘れるだろう。
相房の二子は相季瑞である。こちらは禁軍の近衛兵長の職にあるが、武人にするには臆病で血を見るだけで失神するほどであった。その性根を鍛えるために武人にしたのだが、まるで進展していなかった。
『やはり蓮子か宗如がよい』
相蓮子は女でありながら武人として有能であった。戦場での応変の才は泉国での随一であろう。性格的には難はあるが、部下からの信頼が厚い。上に立つ者としてはまず申し分ないだろうと思っていた。
『宗如もよいが……』
相宗如こそ能力的に後の国主に相応しいと思っていた。武人として勇気はあるし、才知も豊かであった。翼国との国境沿いを守備するという難しい仕事を若年ながら見事にこなしていた。しかし、相宗如を後継者にするにはどうしても難点があった。相宗如は妾との子であった。
『もし正妻との子ならば、すぐにでも宗如を後継として淵の代わりにまずは丞相になってもらうのだが……』
と相房が漏らせば、相淵も、
『宗如ならば私も喜んで丞相の座を譲り、どこかでゆっくりと余生を過ごせるというものです』
と相房の言葉に賛同を示した。
泉春へと帰還した相蓮子は手短に近況を語った。偽公子淡が起こした反乱についても、非常に簡潔にまとめて報告をした。
「自らの功績を誇ることなく、整然とした内容だ。流石は蓮子」
相房は相蓮子を公然と褒めた。命令もなく反乱軍討伐に向かったことについては何も言わず不問に付した。
「父上!いえ、我が君。蓮子は伯との国境を警備するのが役目でありながら、勝手に軍を動かしたのですぞ。賛辞ではなく罰をもってあたるべきではありませんか!」
そう吠えたのは相季瑞であった。相蓮子は相季瑞をひと睨みし、小さく舌打ちをした。
「遠方にあって軍を動かす以上、臨機応変をもって対処するのが当然であろう。将を言は即ち余の言だ。幕府を張るとはそういうことだ。罰するには及ばん」
そういう理屈も分からんのか、と言わんばかりに相房は相季瑞を一瞥した。相季瑞は悔しそうに唇を噛んで黙った。
「間もなく宗如も参ろう。しばらくはゆっくりとするがいい」
「はい」
相蓮子はしおらしく応えたが、そんなつもりは毛頭なかった。用が済めばさっさと泉春を去るつもりであった。
「しかし、折角泉春まで来たんだ。美味い飯も食わしてくれるらしい。せめて美酒美食にはありつうか」
ちょうど腹が減っている頃合であった。相蓮子は供回りも連れず、勝手に厨房に顔を出したのである。そこで相蓮子は樹弘と再会したのであった。




