寂寞の海~25~
変事は着実に起こるべく事態が進んでいた。
国主の座に就いてから国政に対して有益なことも毒になるようなこともしてこなかった章友であったが、その日珍しく朝堂に姿を見せると、突如として閣僚が腰を抜かすようなことを言った。
「後宮にいる女には飽きた。国内から見目麗しい乙女を集めてくれまいか?」
その発言に閣僚の誰しもが唖然としたのは言うまでもなかった。章友の最側近である張鹿もあまりのことにしばらく言葉が出なかった。
「どうした?早くせよ」
章友は何故閣僚達が固まっているのか分からぬようであった。その甲高い声でゆるりとした口調で催促した。
「畏れながら……」
ここで章友に意見をしなければならないのは張鹿であった。
「まだ先主が薨去されて日が浅く、喪も空けておりません。そのようなことはお慎みすべきです」
「ふむ。では、喪とやらが明ければよいのか?」
章友は喪の意味を分かっているのだろうか。閣僚の末席から失笑が漏れた。
「喪が明ければよいと言うものではありません。主上がお役目として美姫を求められるのは理解致しますが、この場で言うべきことではありません」
「左様か」
つまらなさそうに言い捨てると、章友は席を立ってしまった。
「しゅ、主上。お待ちください」
張鹿が章友の後を追っていったので、朝議が先に進まなくなり散会となってしまった。
「主上、お待ちください」
章友を追いかけた張鹿は、私室に入る前にようやく追いついて袖を引いた。
「何の用だ?もう朝議は終わったであろう」
「そうではありません。先ほどの発言です。あのようなことは今後一切口にされてはいけません」
「何故だ?余は国主であろう。国主とはそういうものではないのか?」
どこでそのような知識を得たのだろうか。いや、そういうことではなく、章友が自分の地位がいかに危ういものか気が付いていないことの方が問題であった。
「今はまだ国主になられて間がありません。主上のあらゆる言動が臣下、国民の耳目に晒されます。あのようは発言はお控えあって然るべきかと……」
「国主たる余が美姫を望むことが悪か?他の国主はそうしておるではないか」
「畏れながら……」
立場が違う、と言いかけて張鹿は言葉を飲み込んだ。今の翼公や静公が多少自分の欲をさらけ出すようなことをしても誰も文句は言わないだろう。しかし、国主としての実績などまるでなく、それどころか阿呆として知られている章友が同じことをすれば、やはり阿呆であるとの誹りを受けるであろう。
「他国の国主のことはよいのです。今は主上のご振る舞いを……」
「余は国主であるぞ。何故、国主が臣下に意見されればならぬのか!」
章友が目をむいた。あの目だ、と張鹿は感じた。章穂が臨終する間際に、暴言を吐いた章友のあの目だった。他者を威圧することを意図した、狂気に満ちたあの目だ。
『これは……』
とんでもない暴君かもしれない。張鹿が恐怖に震えて絶句していると、
「主上」
章友を呼ぶ別の声がした。振り向くと、黒衣の男が立っていた。章海である。章海は怒っている風でもなく、悲しんでいる風でもなく、表情一つ読み取れない顔をこちらに向けていた。張鹿はまた別の恐怖を感じた。
「主上、今すぐ朝堂へお戻りください。先ほどの言、お取消しなされるべきです」
言っている内容は張鹿と変わらないが、章海はさらに踏み込んで閣僚の前で発言を撤回しろと言うのである。
「国主の発言は汗のようなものです。一度外に出れば元に戻すことはできません。閣僚達は先ほどの言葉を主上の命令としてすぐに動き出します。今すぐ取り消さねば、閣僚達は国政を捨てて美女狩りという愚行のために奔走しますぞ」
章海の言葉に張鹿は唸った。章海は章友の言葉をはっきりと愚と断定したうえ、国主の政治的な在り方を章友に教えようとしているのだ。
『流石は章海様だ……』
鋭才の誉れ高いという話はやはり本当であった。これから章友が国主としての地位を安泰させるためには、何よりもこの叔父の力を借りねばならないのは明白であった。
「主上。あのとおり章海様も申し上げております故……」
「うるさい!叔父であっても、何の権限があって国主に意見するか!」
たわけめ、と吠えて章友は私室に閉じこもってしまった。
「主上!」
張鹿は戸を叩いたが、中から反応は何もなかった。章海はしばらくその場に佇んだ後、黙って踵を返した。




