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七国春秋  作者: 弥生遼
寂寞の海
285/962

寂寞の海~22~

 「あれは何年前になりますか……。私達は結ばれなかった……」

 章穂は、章海が枕頭に立つと、あの時代のことが鮮明に蘇ってきた。

 「主上……」

 章海は悲し気に眉をしかめた。

 「私と夫の結婚式の時、貴方はずっと恨めしそうに私を見ていた。ただ無言で。私は責められているように思っていました。事実……私は責められても仕方がないことをしました」

 「もう昔のことです、主上」

 「私にとってはそうではありません」

 章穂は自分での驚くぐらい声が弱弱しくなっていた。

 「主人が亡くなった時もそうです。私は主上になると宣言した時も、貴方は私をじっと見ていた。まるで非難するように……。貴方は察していたのではないですか?主人の遺言などなかったということを……」

 これには章海は答えなかった。ただ章穂の差し出した手を優しく握ってくれた。

 「主上、私も年を取りました。過去のことを恨むほどの気力はもうございません」

 確かに章海も年を取っていた。秀麗な容貌は変わりないが、目尻には皺があり、髪の中に白いものも増えていた。その顔を眺めていると、今まで隠し続けてきた感情が急激に湧き出てきて、涙が流れた。

 「主上?」

 「何でもありません……。ただ、あの頃が懐かしかっただけです」

 章穂は嘘をついた。本当に言いたかったことは、このまま墓所に持っていくしかなかった。

 『どうして私が理ではなく友を後嗣としたかお分かりですか?理は貴方の子だからです』

 その言葉が何度も何度も喉から先に出そうになった。

 章理が章海との間に生まれた子であることは間違いなかった。証拠を出せと言われれば、そんなものはないと言うしかないが、こればかりは母として間違いないと確信していた。何よりも章理は若き頃の章海に似ていた。流石に聡い章海もこのことには気が付いていないだろうし、当然章平も章理本人も想像すらしていないだろう。

 『それでいい……』

 章穂一人があらゆる罪を背負えば、万事円満なのである。

 「海殿。くれぐれも子供達のことを頼みます。もうあの子達を託せるのは貴方しかおりません」

 「主上。病において弱気はなりません。私も閣僚達も友様をきっとお助けいたしますので、今はゆるりとお休みください」

 「ありがとう、海殿」

 章穂は心安らかになった。これで思い残すことはもうなかった。


 それから章穂は一週間ほど生きた。その間、何度か小康状態となり、子供達と対面することができた。特に章理がよく訪ねて来てくれた。

 「友は何をしていますか?」

 章穂は我が息子のことが気になった。結局、章友は一度も訪ねて来なかった。

 「友は、主上に代わって政務を見ております」

 すでに章穂は国主の座を章友に譲ろうとしたが、章友はそれを拒否したという。

 『母上がまだご健在なのに譲位する必要があるのか。ただ政務を代わればよいだけではないか』

 と言ってらしい。らしい、と言うのは章理から聞いただけのことであり、本当にあの章友が言ったのかどうか、章穂としては疑問であった。しかし、今の章穂にその真実を確かめるだけの気力も体力も残されていなかった。

 「理、一度だけでいい。友をここに呼んでもらえまいか?」

 章穂としては最期の頼みであった。章理は悲しそうに首を振った。

 「友は忙しいようで……」

 「そうですか……」

 章穂は諦めたように目を閉じた。もうこの目で最愛の息子を見ることは叶わぬのだろう。きっとこれは自分の与えられた罰なのかもしれないと章穂は諦めるほかなかった。


 臨終の時を迎えた。枕頭には親族や閣僚達が集まり、やがて迎えるであろう時を深刻そうな顔で見守っていた。薄らぐ意識の中で、章穂は章友の姿を捜したが、やはりいなかった。

 もはや願いも恨み言も言えなかった。ただ息子に逢いたいということを今際の際まで願っていると、周囲の空気が揺れ動いた。それは動揺であり、困惑であった。

 「ゆ、友……」

 霞む視力で捉えたのは我が子の姿であった。章友はつかつかと母が眠っている寝台に寄ると、ぐっと顔を近づけてきた。

 「おお、友……」

 章穂は章友の頬を触ろうとした。しかし、章友は力強くその手を払いのけた。

 「ようやく死ぬか!くそババア!」

 章友は短く啖呵を切ると、底意地の悪い笑顔を浮かべて退出していった。一同が唖然としている中で、章穂は深すぎる悲しみと絶望の中、その人生を終えた。


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