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七国春秋  作者: 弥生遼
寂寞の海
279/958

寂寞の海~16~

 章理達が泉春に来て一週間が過ぎた。いよいよ印国に帰らねばならなくなったのだが、

 『急ぐ旅でなければ南方を周遊なさってください。私も同行しましょう』

 と樹弘が提案してきたのである。章理は喜んで応じた。しかもこの旅には丞相である景朱麗も同行することとなり、さらに章理を喜ばせた。

 樹弘は桃厘に至るまでの様々な邑に立ち寄り、民衆からの歓迎を受けた。

 「見ましたか、季。泉公はあれほど民衆に慕われている。これはなかなかないことではないか」

 特に桃厘では官吏だけではなく、民衆までもが外に出て樹弘を迎え、樹弘も馬車から降りて気軽に民衆の握手に応じていた。

 『確かに……』

 章季から見ても、ある意味で異様な光景であった。彼女の母である章穂も印公として民衆に慕われている方であろう。だが、鑑京を出て地方の邑を巡察することは稀で、このような出迎えを受けることもなかった。ましてや馬車を降りて、民衆の中に交わることなどまず考えられなかった。

 「泉公は偉ぶることなく、常に民衆の生活のことを心掛けている証拠だ」

 「そこが我が主が民衆に慕われている所以です」

 章理の賛辞に景朱麗は我が事の喜び自慢していた。景朱麗としてもこのような国主を主君として仰ぐなら鼻が高いであろう。

 「まさに……」

 と言う章理は羨望の眼差しで景朱麗を見ていた。

 『姉さんは景丞相が羨ましいのだ』

 章理という女性の心情を考えれば、景朱麗を羨ましく思うのも当然であろう。章理にとっては夢を見るような日々の中での淡い憧れであったに違いない。

 しかし、章理達が泉国にいられるのは後一日でしかない。章季は姉のことを不憫に思った。


 桃厘では樹弘主催で惜別の宴が行われた。贅沢ではない、ささやかな祝宴であったが、樹弘の心籠ったもてなしで、章理は絶えず笑顔であった。そしてその晩、章理は景朱麗を自分達姉妹の寝室に招いた。

 「最後の晩ぐらい、女だけでかしましく致しましょう。男がいてはできぬ話もありましょうし」

 章理がそのような誘い方をしたので章季はやや驚いた。まるで年頃の乙女が夜更かしして色恋話でもするかのようであった。

 茶をすすりながら、女三人は他愛もない話を続けた。というよりも章理と景朱麗が二人で政治談議をし、章季はたまに頷く程度であった。

 「それにして泉公は素晴らしい人物だ。私はあのような男性と出会ったことがない」

 章理は終始泉公への賛辞を惜しまなかった。姉が他人を、特に男性を手放しに褒めるのは非常に珍しいことであった。

 「正直なところ、私は迷っています。結婚などするつもりなかったのですが、泉公なら構わないと思っています」

 章季は驚かされた。姉がそのような恋する乙女のようなことを言い出すなんて想像もしていなかった。

 「構わないというのは失礼な発言ですね。ですが、私もこのような気持ちは生まれて初めてなので、どうも上手く表現できないので……」

 章理は俯いて語尾を濁した。初恋をしている乙女のようであり、見ている章季の方が恥ずかしくなってきた。景朱麗も章理の思わぬ変心に戸惑っていると思い、ちらりと彼女の様子を窺ってみると、まるでこの世の終わりを見てきたかのような怖い顔をしていた。

 『これは……』

 ひょっとして景朱麗は泉公のことを好いているのではないか。章季がそう邪推していると、章理が言葉を続けた。

 「しかし、私は印国で政治をしたい。その思いも私の本音です」

 章季は再び景朱麗を見た。中原のすべての悲しみを背負ったような悲壮な顔であった。

 「ね、姉さん。えらい気の変わりようね。泉公の前であれだけ啖呵をきっていたのに」

 章季は景朱麗を気遣ってあえて姉を批判した。しかし、章理にはなしのつぶてのようで、章季の言葉を批判として受け取っていないようで、何故から照れたように顔を赤くした。

 「私は別に泉公を嫌って言ったわけではない。嫁ぐのが嫌だっただけだ。もしあの時に泉公の人となりを知っていたら、受けていたかもしれないな」

 これはのろけだ、と章季は思った。おそらくは人生で初めて恋をしたであろう姉は、己の感情を制御する術を知らないのだ。

 『これはまずい……』

 それはきっと景朱麗も同じではないだろうか。彼女はさっきからずっと悲しそうに恨めしそうに章理を見ていた。もし景朱麗が恋愛に対して手練手管に長けているのなら何事か言って章理を揺さぶるのだろうが、打つ手もなく単に黙っているだけであった。

 「とりあえずは国に戻って冷静に考えてきます。どちらにしろ、泉公とはまたお会いするつもりです」

 章理の目はきらきらと輝き、景朱麗の瞳は黒く落ち込んでいた。章季の腹はきりりと痛み始めていた。

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