寂寞の海~12~
泉春に帰りついた樹弘を待っていたのは、普段と変わらぬ日常であった。予期されていた景朱麗からの質問攻めもなく、彼女の様子も普段を変わりなかった。
『朱麗さんはあまり僕の婚儀のことに興味ないのかな』
それとも甲元亀に一任したのだろうか。樹弘はひとまず胸をなでおろしていた。
しかし、実情は違う。景朱麗はあの日から平静を装うのに必死になっていた。
樹弘が泉春に帰ると早々に、景朱麗は甲元亀を執務室に呼び出した。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、どうして私に内緒で主上の婚姻話を進めたのですか」
景朱麗は明らかに怒っていた。本人はあくまでも冷静に甲元亀を問い詰めようとしているのだが、感情を顔色から隠すことはできなかった。
「それだからこそ朱麗様には内緒にしていたのです。朱麗様だけではなく、蒼葉様にも黄鈴様にも……」
「どういう意味ですか?」
「では、はっきり申し上げます。朱麗様に蒼葉様、そして黄鈴様は主上がまだ主上となられる前から付き合いです。そして苦楽を共にされてきました。皆さんが主上に対して主君として以外の感情を持っていないか。儂はそれを心配したから、申し上げなかったのです」
景朱麗にはぴんときていないようで、不思議そうな顔をしていた。
「黄鈴様は、そういう感じではないでしょう。蒼葉様はいまひとつよく分からぬところがあります。しかし、どうも朱麗様を見ておりますと、爺としては心配するのです」
「何を言っているのです、元亀様」
「つまり、朱麗様が主上を異性として好いているということです」
景朱麗の顔がみるみるうちに赤くなっていった。それが怒りではなく、羞恥であることは明らかであった。
「げ、元亀様!何を!そのようなこと!」
「ふむ。ご否定されるのであれば、何も問題ではありますまい。このまま章理様との婚儀、進めさせてもらいますぞ」
「そのような……いや、私が主上を好いているなど、畏れ多い……」
景朱麗は否定も肯定もできなかった。それが彼女の偽りない今の感情なのだろう。
「やれやれ、景秀様から養育を託されて儂なりになんとか頑張ってきましたが、肝心な部分は教えられなかったようですな。まぁ、教えられるようなことでもないのですがな」
「私は、その……」
「無理に言葉を発しなくてもよろしいですよ、朱麗様。儂は主上の婚儀がまとまれば、隠居するつもりでおります」
主上には内緒ですぞ、と甲元亀は念を押した。
「元亀様。それは早うございます。まだ色々とご教授いただきたいことがあるのに」
「そのようなことはありますまい。それに儂も良い年です。そろそろ休ませてはもらえませんでしょうか?」
そのように言われれば、景朱麗としてはさらに引き留めることはできなかった。
「それに儂は主上のお相手が必ずしも印国の公女でなければならないとは思っておりませんよ。ですが、今のところ尤も相応しいと思っております。問題は主上がいかなる決断をされるかです」
勝負ですな、と甲元亀はこれまでで一番意地の悪い笑顔を見せた。
甲元亀が去ると、景朱麗は椅子に身を沈めた。
『私は主上を好いているのだろうか……』
改めて問われるまでもなく、樹弘のことは主上として敬愛している。だがそれは、当然ながら家臣が主君に対して抱くものであり、男女の恋愛感情ではないと思っていた。
『ああ、主上……』
だが、それでは樹弘に対して時折感じることのある、体が熱くなる思いや、身が狂いそうになるもどかしさは説明ができないだろう。やはり樹弘のことを異性として気にしているのではないか。
「まさか、相手は主上だぞ。畏れ多い……」
これまでの人生、景朱麗は男性を異性として捉えることはなかった。ひとりの女として恋をすることもなかったし、ましてや男と深い仲になるようなことも微塵もなかった。
そのような人生を恥じるような景朱麗ではない。しかし、今、甲元亀に言われて初めて樹弘のことを主君としてではなく、ひとりの男として意識するようになった。
『蒼葉はどうなのだろう』
甲元亀に言わせれば、景黄鈴にはどうもその気はなさそうである。ただ景蒼葉は分からぬという。
『蒼葉は私よりも主上と一緒にいる時間が多い。蒼葉が主上のことを好きになっても不思議ではない』
ぎゅっと胸が痛んだ景朱麗は、たまらずに妹を呼んだ。
「なんで呼ばれたかって、聞くまでもないわよね」
主上のことでしょう、と景蒼葉が言うと、景朱麗は甲元亀と話したことを洗いざらい話した。途中、景三姉妹が樹弘のことをひとりの男性として意識しているのではないかという件になると、流石の景蒼葉も顔を赤くした。
「で、蒼葉はどうなのだ?主上を男性として……意識しているのか?」
「元亀様の目は確かね。そうよ。主上のことは素晴らしくて素敵な男性だと思っているわ」
景蒼葉は恥ずかしがることなく率直に答えた。景朱麗は少し息苦しくなってきた。
「でもね、私にとっての主上は一人の異性である前に主上なのよね。そっちの方の意識が強いから、やっぱり好きな異性として見られないよね」
「そうか、そうだよな」
「でも、主上が私を女性として求められたならきっと拒めないでしょうね」
困ったわ、と言うと、景朱麗は顔を真っ赤にした。
「そ、蒼葉!」
「冗談……じゃないわよ。私は本気でそう思っているから。姉さんも自分の気持ちをはっきりとさせることね。そうじゃないと、得られるものも得られなくなるわよ」
「私は丞相だぞ」
「私だって秘書官よ。主上がどういう判断をされるか次第ね」
負けないわよ姉さん、と言って景蒼葉は部屋を出て行った。




