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七国春秋  作者: 弥生遼
漂泊の翼
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漂泊の翼~73~

 もはや広鳳は目前となっていた。楽乗軍の陣容は五万名を超えており、迎撃に来る敵部隊もいなかった。

 「楽乗様より今宵は皆さまと夕食を共にしたいとのお言葉を賜っております」

 楽乗からの使者がやって来たので、剛雛と陳逸は揃って楽乗の天幕を訪ねた。そこには胡旦をはじめ、摂からは羽綜、許斗からは羽敏と阿習も駆けつけていた。

 「広鳳まで二舎となった。少し気が早いが、諸君への慰労としてささやかながら宴席を設けることにした。存分に楽しんでくれ」

 楽乗が宣言すると、酒と食事が運ばれてきた。戦場であるため美酒美食とはいかなかったが、それでも楽乗の心遣いを感じることができた。

 宴もたけなわになった頃、一人の男が楽乗に尋ねた。

 「楽乗様、最も功績があるのはどなたでありましょう」

 男からすれば酒の勢いで戯れに聞いただけであったろう。しかし、多くの者が耳をそばだてた。ここで楽乗から発せられる言葉は決して戯れでは済まない。後の地位や報奨にも関わってくるからである。

 「そうだな……」

 楽乗はちらりと剛雛を見た。剛雛も見られたという自覚があった。他の者達も楽乗が剛雛を見たのを気がついていた。勲一等は剛雛であろう。誰しもがそう思い、その判断に異論を挟むものはいないであろうと思い、楽乗からその名前が出るのを待っていると、先に声を上げた者がいた。

 「何を仰る。勲一等は胡旦様の他におられまい。胡旦様は幼き頃から楽乗様に付き従い、羽禁との戦も時も功績をあげてこられた。今日の楽乗様がおられるのは胡旦様のおかげであろう。それに胡演様のこともある。胡演様は胡旦様と兄弟として一心同体として頑張ってこられた。当然、胡演様の生前の功績も胡旦様が継がれるべきでしょう。戯れとはいえ、そのようなことを言うものではない」

 声を上げたのは胡旦の隣に座る男であった。彼が胡旦の側近中の側近である。胡旦は彼の言葉を聞きながら、実に満足そうに頷いた。

 「そうだな、勿論勲一等は胡旦だ」

 楽乗はばつが悪そうに言った。おそらくは楽乗も胡旦か剛雛か迷ったに違いない。剛雛のことを見たのはたまたまであったかもしれず、あるいは両者を名前としてあげるかもしれなかった。しかし、胡旦の側近が声を上げたことで、楽乗は胡旦の名前のみをあげざるを得なくなってしまった。勲一等は胡旦であると言わされてしまったのである。

 胡旦と側近は満足そうであったが、宴の座はなんとなく白けてしまった。


 「耳が汚れてしまったわ!」

 宴が終わり、天幕を出た陳逸は忌々し気に喚いた。

 「我らが臣下がこれまで頑張ってきたのは、自己の名誉富貴のためではなく、ひとえに楽乗様を翼国にお戻しし、国主になっていただくためではなかったか!それなのに胡旦は、自己の名利を求めた。これでは我らの義挙も汚されたようなものだ!」

 陳逸はついには涙を流した。陳逸もその場いたから一部始終を見ていた。実際に胡旦が勲一等だと言ったのは胡旦自身ではない。あくまでも彼の側近である。

 「側近に言わせたのが尚更卑怯だ。あの男は!」

 胡旦は決して側近に言えとは言っていないだろう。しかし、胡旦は側近が言うことを止めることなく、それどころかよく言ったと言わんばかりに満足そうであった。胡旦自身が自らの功績を主張したことよりも、他者に言わせたことの方が明らかに卑劣であると陳逸は憤った。

 陳逸が怒りをぶちまけている間、剛雛は終始無言であった。剛雛も陳逸と同じ思いであった。だが、陳逸が怒りを顕にしているの対し、剛雛には悲しみしかなかった。

 『胡演様さえおられれば……』

 このような悲しい思いをせずに済んだであろう。そう思うと、ただひたすら悲しかった。自らの名利を求めず、ただ滅私して楽乗のために戦ってきたのは何であったのか。胡旦のおかげで剛雛の思いがすべて吹き飛んでしまった。きっと胡演が生きておれば、あの場で胡旦の側近を戒めただろう。

 『もう私はここに必要ない。いる意味がなくなった』

 胸中、そう思った剛雛は、自分のとるべき行動をすでに決めていた。


 その晩、剛雛はそっと天幕を出た。わずかばかりの金銭だけを持ち、鎧も槍も置いていった。天幕を守る衛兵はぐっすりと眠っている。剛雛が咎めないので衛兵が深夜になると眠りこけるのは知っていた。

 「こんな深夜にどこに行くというのかね?」

 闇から声がしてどきりとした。が、それは陳逸であると知ると、ほっと胸をなでおろした。

 「脅かさないでください。陳逸殿こそどうしたんです?」

 「お前さんが軍を去ると思ってな。ぜひとも同行させてもらおうと思って」

 こうして待っていたのだ、と陳逸が言った。彼も粗衣を着ていた。

 「陳逸殿にはばれてましたか。流石は軍師殿」

 「茶化さんでくれ。こんな俺でも恥というものは知っている。あのような功利をあからさまに求める者と志を一緒にしたくない」

 剛雛の気持ちを一番知るのは陳逸であるかもしれない。だから剛雛も、陳逸の同行を止める気はなかった。

 「私は故郷へ戻るつもりですが、陳逸殿も故郷へ」

 「へへ。俺は今更故郷に帰ってもまた厄介者にされるだけだ。そうだな。お前さんの姉君がまだ誰とも再婚していなければ嫁にでももらうかな」

 陳逸が剛雛の腰を叩いた。それを合図に二人は歩き出した。しかし、陳逸がすぐに立ち止まった。

 「それにしても忌々しい。ちょっと待っていてくれ」

 陳逸は一枚の紙片を取り出した。詩を認めていて、自分の天幕に置いてくるつもりであったが、結局は置かずに懐中に入れておいた。陳逸はそれを剛雛の天幕に投げ込んだ。

 「もはやもう戻ることもないから、これぐらいいいだろう」

 すっきりしたように陳逸が天幕から戻ってきた。

 「何と書いてあったのです?」

 「お前さんは知らなくていいよ。ひねくれ者の戯言だ」

 陳逸は笑った。剛雛はそれ以上尋ねることなく、北へ向かって歩き出した。

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