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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
23/958

黄昏の泉~23~

 田員と別れた樹弘と景朱麗はさらに南へと急いだ。田員は馬を樹弘に譲ろうとしたが、馬車の馬を御することはできても、自ら馬の背に乗ったことのない樹弘はこの申し出を断った。樹弘は景朱麗の馬の手綱を取り、徒歩で行くことになった。

 「さながら従者だな」

 少し余裕が出来てきた景朱麗はそんなことを言った。樹弘にとって主人は景朱麗ではなく、甲元亀である。その甲元亀が景朱麗を景家の当主として崇めているのだから、あるいは主人であるかもしれなかった。

 そのようなことをぼんやりと考えていると、

 「気を悪くしたか?」

 「いえ。僕からすれば朱麗様も雲上人です。本来なら従者にもなれませんから」

 そうかもな、と景朱麗は寂しく笑った。我が身の境遇を思ってのことであった。

 地平線が白み始めた頃、渓流に行き当たった。そこで景朱麗が馬をとめた。

 「ここで体を洗おう。お互い、この格好では人のいる所へは出られないからな」

 景朱麗は服を摘んだ。まだ返り血で汚れていた。樹弘も汚れた服と咽るような血の臭いに辟易としていたところであった。

 樹弘は背負っていた荷物と剣を置き、服を脱いだ。すると景朱麗は顔をやや赤くして近くの岩陰に隠れた。

 「一応、私は女だぞ。忘れたのか」

 上ずった景朱麗の声だけが聞こえた。すみませんと謝ったが、景朱麗の言葉は返ってこなかった。

 すべての服を脱ぎ、川の水で体を洗った樹弘は、血の着いた服も洗おうと思ったが、染み付いた血糊はまるで取れなかった。仕方なく、持ってきていた唯一の予備の服に着替えることにした。

 川から出た樹弘は、辺りの小枝を拾い集め火を起こした。日中は暑さが残る季節とはいえ、夜から早朝にかけては冷えてくる頃合である。暖を取らねば風邪を引いてしまいそうであった。

 「焚き火か。気が利くな」

 しばらくして岩陰から景朱麗が戻ってきた。彼女も新しい衣服に着替えていた。

 「少しは温まって行きませんと」 

 「そうだな。もう十月だからな」

 景朱麗が隣に座った。改めてみると景朱麗は凛々しく美しかった。彫りが深く整った顔立ちにやや憂いが帯びていて、そのことで景朱麗の美しさが増しているような気がした。

 「どうしたか?」

 「いえ、別に……」

 樹弘は景朱麗から目を逸らした。景朱麗はそれほど気にする風でもなく、先ほどまで来ていた自分の服を引き裂き、焚き火の中に投げ入れた。

 「安い服はあまり燃えないな」

 景朱麗は手持ちにあった小枝を広い、炎の中の火種をかき回した。景朱麗が投げ入れた服の破片に火が燃え移った。

 「樹君は今、いくつだ?」

 「え?十七です」

 「ということは相房の乱の時は二歳か。私は八歳だった」

 何の話をするのかと思い黙って聞いていると、景朱麗は何を勘違いしたのか、私にだって小さい頃はあったんだ、と笑った。

 「ずっと泉春に住んでいた。大きな邸宅だったよ。泉国の重鎮、景家に相応しい大きさだったんだ。でも、贅沢をさせてもらった経験はなかった。父は厳しくて、私達の我儘なんて一切許さなかった」

 「父……景秀様ですね」

 景朱麗は頷いて続けた。

 「それでも貴族のご令嬢だ。美味しいものにはありつけたし、華美な服を身につけることもできた。でも、私はそんなことに興味はなかった。だから、泉春から追放されてからの生活もそれほど苦ではなかった」

 今もそれほど苦はない、と景朱麗は念を押すように言った。

 「私は長子だった。上に男がおらず、弟も生まれる気配はなかった。だから私が景家を継がねばと思っていた。勉強をし、必ず丞相になってやると意気込んでいた。馬鹿な話だと思うだろ?」

 「いえ……。立派な志だと思います」

 「君は優しいな、樹君」

 そう言われ、樹弘はますますどぎまぎした。

 「唯一、そう、本当に唯一、口惜しいことがあるとすればそれだ。志を実現できずにいることだ。そのことを考えただけで、我が身が情けなくなる」

 景朱麗は手にしていた小枝を投げつけるように炎の中にくべた。よほど悔しいのだろう。

 確かに今の境遇を思えば世が乱れているとはいえ、ここから相房の世を終わらせ、景朱麗が丞相となることは至難の業のように思われる。そのような大業を成したとしても、どれほどの歳月がかかるか分かったものではない。

 「だけど、悔しいからこそ、情けないからこそ、私はいかなる艱難辛苦に耐えられている。私だけではない。元亀様も、蒼葉も、黄鈴もだ」

 景朱麗の、いや、景朱麗だけではない。景家にまつわる人達の志の高さに樹弘は心を振るわされた。この人達と行動を共にすることを誇らしく思えるほどであった。

 「僕はしがない普通の人間です。でも、朱麗様達の志、実現できるように微力ながらお手伝いさせてください」

 樹弘が言うと、景朱麗は一瞬呆気に取られながらも、ふふっと笑った。

 「もう充分手伝ってもらっているよ」

 これからもよろしくだな、と景朱麗は手を差し出した。樹弘は迷うことなく景朱麗の手を握り返した。

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