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七国春秋  作者: 弥生遼
漂泊の翼
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漂泊の翼~12~

 尾城を失陥したことにより、羽氏の本拠地であり、翼国の国都である広鳳は大騒ぎとなった。広鳳の面々からすると、生まれて初めて喉元に刃を突きつけられた状態となったのである。黒絶の壁を越えたところに拠点を構えられると、羽氏の領土内であらゆる軍事行動が可能となる。それに羽氏からすれば黒絶の壁という天然の要害と尾城に守られ続けてきたので、尾城を失った状態での防衛戦略というものを微塵も想定していなかった。

 「尾城を失うとはあってはならんことだ!黄桓を殺せ!」

 延臣が並ぶ朝堂で喚き散らしたのは翼公、羽禁であった。この若き翼公は偶然のことながら楽乗と同い年であるが、人としての素養は正反対であった。後世の歴史家が、どう考えても狂人であるとしか言いようがない、と評するほど羽禁という人物は、その悪行を数え上げると両手両足があっても足らぬほどであった。

 羽禁が国主となって間もない頃、近習を務めた家臣が結婚することになった。その近習の妻は大変美しく、広鳳でも随一の美人とされる女性であった。そのことが気になった羽禁は、近習の留守を狙って密かに近習宅を訪れ、対応に出た妻を一眼見て気に入り、そのまま連れ去ってしまったのである。当然ながらその妻は無事であるはずもなく、羽禁にいい様に弄ばれた挙句、自害してしまった。しかもこの話はそこで終わらず、国主の行いの非を鳴らして訴え出た近習を不敬罪として処刑してしまったのである。

 さらにこのような話もある。羽禁が広鳳の宮殿にあった書物を見つけた時のことである。その書物は世間一般では偽書と知られており、妄想家が嘘八百を並べただけというものであった。普段は書物など触りもしない羽禁がどういうわけかその偽書を手にして読み耽り、ある一説を間に受けてしまった。

 『この書物によれば、幼い女児の肝をその血で煮込むと不老不死の霊薬になるらしい。初代義王もそれで生きながらえて今も生きているとのことだ。私もそれを行ってみようと思う』

 家臣達が絶句したには言うまでない。羽禁に仕える彼らはその狂気に怯え、刺激しないように唯々諾々としてきたが、流石に今回ばかりはと抗弁した。

 『畏れながらそれは偽書と名高いもので、嘘偽りばかりが書かれたものです。どうぞそのようなことを口の端にも昇らせないようにお願いします』

 家臣の一人がそう進言すると、羽禁はかっと目を怒らせて、その家臣を口汚く罵り、処刑を命じたのである。その処刑法は残忍で、油が沸きった釜に生きたまま投げ込むというものであった。絶叫しながら絶命する家臣を見て大笑いしたというから羽禁がどのような人物であるか察することができるであろう。余談ながらこの処刑で気が削がれたのか、偽書に書かれた儀式を行うことはなかった。

 尾城を失い、黄桓に死を宣告したこの時も、羽禁の瞳には狂気が宿っていた。居並ぶ延臣の誰しもが羽禁に睨まれて死ぬことを恐れて黄桓を弁護しなかった。すでに拘禁され牢に入れられている黄桓には死しか待っていなかった。しかし、

 「お待ち下さい。主上」

と声をあげた者がいた。羽禁の後見を務めている羽則であった。

 「勝敗は武人の常にであります。今ここで黄桓を罰すれば、賊徒と戦うために前線に立つ将兵がいなくなります。ここは上に立つ者としてご寛容を示されるべきかと愚考いたします」

 延臣達はほっと胸を撫で下ろした。羽禁に対して唯一意見を言えるのは、この羽則だけであった。羽則は羽氏の一族であり、羽禁の父の代には丞相を務めていた実力者であった。先の悪行のいずれもがその場に羽則がいない時に行われ、羽則がいれば防げたのではと言われていた。

 「ちっ!」

 羽禁はあからさまに舌打をした。だが、傍若無人の羽禁であっても羽則の言を無視できなかった。

 「ふん!ならば黄桓は罷免して庶人に落す。それでよかろう」

 「ご再考していただきありがとうございます」

 羽禁は不愉快とばかりに足を踏み鳴らしながら、退出していった。羽則はふうとため息をついた。

 朝議が終わり、私邸に帰ってきた羽則は、疲れた体を長椅子に沈めた。わずか一刻にも満たない朝議でこれほどの疲労を感じることは少なかった。

 『私も年か……』

と思った瞬間、その弱気を振り払った。宿敵である楽玄紹は自分よりはるか年長であるが、意欲は盛んである。年のせいで気を弱くしていては、楽玄紹に負けてしまう。羽則には、今の翼国を支えているのは自分であるという自負があり、楽玄紹と対抗できるのは自分しかいないと思っている。老獪な楽玄紹に気で負けている場合ではなかった。

 「お義父様、お疲れですわね」

 疲れきった羽則に茶を差し出してくれたのは義理の娘の羽陽であった。その傍らには幼い孫、羽敏の姿もあった。

 「おお、すまんな。綜は寝ているのか?」

 羽綜は羽敏の弟にあたる。二人の孫は羽則にとって目に入れても痛くない存在であった。

 「はい。よく眠っておりますわ」

 羽陽が言い終わらぬうちに羽敏が抱きついてきた。

 「敏。いけませんよ。お爺様は疲れていらっしゃるんですから」

 「はは。構わんよ。そうだ、達のことだが、来年には帰ってこられるだろう」

 「まぁ、そうですか」

 羽陽が嬉しそうに目を輝かせた。羽達は羽則の息子であり、羽陽の夫でもあった。現在は条国との同盟関係を強固にするために駐在武官を務めている。楽氏と内戦状態にある現状では、隣接している大国との同盟は必要不可欠であった。羽達は両国の同盟の維持に努め、一定の成果をあげていた。その羽達を呼び戻すのは苦渋に判断であったが、楽氏との戦いが激化するであろう将来にはどうしても羽則の側に必要な人材であった。

 羽達は親の目で厳しく見ても優秀な男であった。人望があり、条国の首脳陣からも気に入られているという。また軍事についても申し分なく、兵車を指揮する姿は古今無双の英雄であると言われていた。楽氏と戦いこれを滅ぼすにはどうしても羽達の力が必要であり、羽則が無理を押して条国から呼び戻したのである。新しい武官が条国に着任し、引き継ぎを終えてから広鳳に帰ってくるには一年はかかる。それまではなんとしても羽則の手で楽氏の侵略を阻まなければならない。

 『そのためには主上だ』

 国主である羽禁は有能な主君ではなかった。無能であれば救いようがあるのだが、その凶悪な性格は国家に害を成す以外に何ももたらすものはなかった。それでも羽則は羽禁を国主と仰ぎ、支えねばならなかった。

 『儂と羽達であれば、翼国を守ることができる』

 羽則はそう信じて疑わなかった。しかし、羽則共々、羽氏が滅亡に向かっていることなど想像もしていなかった。

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