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七国春秋  作者: 弥生遼
漂泊の翼
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漂泊の翼~5~

 翌日、楽玄紹は私室に嫡子である楽伝を呼んだ。朝からの召し出しに楽伝は怪訝な顔をしていた。

 「先程の論功、やはり違っておりましたでしょうか?」

 楽伝はそう尋ねた。まだそのようなことを気にしているのか、と楽玄紹は呆れた。

 『伝は儂の目を畏れ過ぎている』

 戦場では楽玄紹よりも勇猛果敢である楽伝であるが、どうにも目の上に存在に対して畏れを抱き過ぎている。そのことが楽玄紹からみれば不満ではあった。

 「そうではない」

 とだけ言って楽玄紹は口を噤んだ。やはり自分の代で羽氏を滅ぼさなけばならないだろう。楽伝では無理だ、と咄嗟に感じた。そして同時に楽伝を公主、やがては国主に相応しい人物に育てなければならないと天啓のように閃めいた。

 「伝よ。お前に家督を譲る。今よりお前が公主だ」

 「父上、そんな急に……」

 楽伝は驚きを隠さなかった。

 「隠居をしてお前を後見する。もう決めた」

 「お体でもお悪いのですか?」

 「老いは感じるが、体はまだ丈夫なほうだ。だが、年であるからいつ死ぬか分からん。だから生きている間にお前の公主としての振る舞いを見届け、必要であれば後見する」

 「今の私では公主として力不足ですか?」

 楽伝は、やはり楽玄紹の評価には敏感に反応した。

 「力不足だろう。だが、なったばかりの時は誰しもそうだ。儂も父には随分と危ぶまれたものだ」

 これは詭弁であった。楽伝は少なくとも若き日の自分より劣っていると思っている。だが、楽伝の気を萎えさせないようにあえて詭弁をもって誤魔化した。

 「私は何が足りないのでしょうか?」

 楽伝は真面目であった。その真面目さと素直さを子や家臣達に示すことができればと思うのだが、そのことをはっきりと言って楽伝が聞き入れるどうか。楽玄紹は慎重に言葉を選んだ。

 「お前は儂よりも勇猛であるし、武芸にも長じている。兵の進退も申し分ないし、政もこなすであろう。儂が心配するのは子や家臣との関係よ」

 「子達には愛しみと厳しさをもって接しておりますし、家臣達は信頼して能力を見極めて仕事を任せているつもりですが」

 やはり楽伝の見えている世界は楽玄紹のそれとは違うらしい。だが、ここで説教のようなことを言ってもいきなり公主なることになって興奮と緊張の中にいる楽伝にどこまで身に染みる言葉になるかは疑わしかった。

 「まぁいい。いずれお前に教えていくとしよう。とにかく家督をお前に譲ったことを皆に告げる。以後、羽氏への戦略はお前が練るがいい」

 「はい」

 楽伝の顔が紅潮していた。


 楽玄紹は家督を楽伝に譲ることを家臣達に発表した。家臣達は一様に驚いたが、後見として楽伝を支えると言うと、彼らは安堵に表情を浮かべた。

 楽玄紹は楽氏を苦境から一大勢力へと飛躍させた英傑であることには間違いなかった。その英傑の唯一の欠点は、自己の大きさに気がつかなかったことであった。英傑としての巨大さ故に楽伝は己の存在に矮小さを感じ、家臣達はそれにすがることを忘れなかった。楽玄紹はすべてを任せて完全に隠居すべきであった。自らの影響力を残したことが、後に楽伝という男の公主としての成長に著しい影を落とすことになった。

 ともかくも楽伝の楽公就任と同時に楽慶が新たな嫡子として定められ、楽氏は新たな体制へと移行することとなった。

 数日後、楽伝は羽氏に対して新たな出師を行うことを告げた。その戦略も発表され、楽伝は家臣団に意見を求めた。総大将は楽伝とし、長蛇の坂から攻めかかって敗退するふりをして敵を黒絶の壁北部に誘引し、そこで敵の主力を撃滅するというものであった。公孫から公子となった楽伝の三人の息子達にも役目が与えられ、長子楽慶が許斗で留守を守り、楽伝が溺愛している楽宣施は誘引された敵の後方を遮断するという重大な任務を与えられた。そして楽乗は、黒絶の壁を西側から迂回し、羽氏の領内で撹乱を起こす陽動の役目を与えられた。

 「まったく酷い!新しい楽公に情というのはないのか!」

 楽乗が自分の屋敷に戻り、今回決定した自らの役割を家臣達に伝えると、真先に胡旦が声を上げた。胡旦のいうとおり、楽伝の決定はあまりにも非情であった。嫡子である楽慶の留守は仕方ないが、楽乗に与えられた任務はあまりにも危険で、且つ戦功になり難いものであった。そんな任務をあえて子である楽乗に課した楽伝がどのような気持ちであるのか、胡旦ならずとも不思議に思い、納得できないものであった。

 「落ち着かれよ、兄上。辛いのは乗様ですぞ」

 と胡旦をたしなめたのは弟である胡演であった。彼は直情的な胡旦と違って沈着で、時として兄を戒めることもあった。

 「しかし、この作戦では主戦場は長蛇の坂になり、最大の戦功を期待でいるのは宣施の部隊だ。それを次兄である乗様ではなく、末弟の宣施にさせるなど、伝様は乗様を立てるつもりがないのだ!」

 胡旦が楽乗の気持ちをすべて代弁してくれた。もし楽伝に楽乗を子として思いやる心情があるとするならば、楽乗に手柄を立てされるようにするであろう。ところがこの作戦では手柄を立てるどころか、敵中深く踏み入れれば敵に見つかり殺されるかもしれない、危険な割には得られるものがほとんどない任務であった。

 『父はそこまで私がお嫌いなのか』

 楽乗は声に出して叫びたかった。楽乗の方は父である楽伝を尊敬し、従順に従ってきた。何が悪くてそこまで邪険にされるのか。

 『きっと父上は私を殺したいのだ』

 楽乗は任務を遂行して死ぬしかない、と考えるようになっていた。しかし、

 「皆さん何を悲観なさるのか。これこそ大慶ではありませんか」

 と嬉しそうな声を上げたのは、郭文であった。

 「何故、大慶と仰るか!」

 胡旦が噛み付いてきた。確かに大慶とは思えないが、郭文は自信に満ちた笑みを浮かべていた。

 「郭文には私達と違う物の見方があるようだな」

 「はい、乗様。今回の任務には大きく二つの利がございます。ひとつは本隊を離れての陽動ですから明確な目標が示されておりません。それは即ち乗様の裁量に任されたということです。やろうと思えば、存分な戦果を挙げることもできます」

 郭文のいうとおり、楽伝からは後方撹乱としか命じられていない。見放されたと言えるが、好き放題できると言うことでもあった。

 「もうひとつの利は今回の作戦は失敗します。乗様はその被害に遭うことがなく、寧ろただ一人戦功を立てることができます」

 郭文は随分と大胆なことを言った。楽乗は郭文とは付き合いが長いが、時として突拍子もないことを言う傅役のことが分からなくなることがあった。

 「まだ始まってもいないのに不吉なことを言うな。しかも父上が公主になって初めての初陣だぞ」

 「なればこそです。初陣にしては冒険的要素が強過ぎます。それに宣施様は先の演習を見ておりますと、他者との連携がまるでできておりません。どうしてあのような作戦が成功させることができましょうか」

 必ず負けます、郭文は断言した。郭文は武の人ではなく、どちらかといえば文の人である。だが、それでも断言できるのだから、おそらく確信に満ちているにだろう。

 「では、父上に申し上げてくる」

 「おやめになった方がいいでしょう。伝様は自己愛の強いお方です。取りあげないでありましょう」

 「ならば玄紹様に申し上げる」

 楽乗は郭文の言葉を聞かないように席を立った。

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