黄昏の泉~17~
鉈を振り上げると、ずきりと肩が痛んだ。昨日、景朱麗に一撃を喰らった箇所である。あの後、景蒼葉が膏薬を張ってくれて随分とましにはなったが、それでも動かすと痛みが走った。
「ふん!」
痛みを我慢して鉈を薪に向かって振り下ろした。鉈は薪に食い込んだが途中で止まり、薪が割れることはなかった。
「無理せずともよい。少し休め」
薪に刺さったままの鉈をさらに振り上げようとしていると、甲元亀に止められた。
「甲様」
「痛むのであろう。無理する必要もない」
甲元亀は積まれた薪の山に腰を下ろすと手招きをした。樹弘は鉈を置き、甲元亀の傍に行って地面に座った。
「隣に座れ」
「しかし……」
「重要な話がある。近い方がいい」
そう言われ樹弘は遠慮がちに甲元亀の隣に座った。
「実は近々、この麦楊に四十名近くの兵士が派遣させてくる」
甲元亀は樹弘の表情を窺うようにして覗き込んできた。樹弘は顔色を出さないように努めたが、きっと驚きと怯えの色が出ていただろう。
「どうやら相房の軍が偽公子の軍に敗北したらしい。いよいよ反乱の機運が広がるだろうから、その前に儂らの監視を強化しようということだろう」
「甲様達を害する、ということはないのでしょうか?」
もしそうなるのならば、樹弘は甲元亀を守るために戦わなければならない。その覚悟は麦楊に来て以来、ずっとできていた。
「まぁ、すぐにはないと思う。単に儂や朱麗様を害するのなら、別に兵を増やす必要はない。今いる連中でも充分ことが足りるからな」
現在、麦楊には二十名ほど。彼らは門を固める一方で、定期的に見回りをしている。樹弘も庭で薪を割っていると度々彼らと顔を合わせることがあった。
「すぐには、と言うことはいずれは……」
「可能性は充分にあろう。そこで……」
甲元亀は急に声を潜めた。
「今晩のうちに麦楊を脱出する」
朱麗様達も含めてだ、と甲元亀は続けた。
「目立っては駄目だから、使用人達は置いていく。しかし樹弘、お前さんには一緒に来て欲しい」
勿論、言われるまでもなく樹弘は甲元亀達についていくつもりでいた。それが樹弘に与えられた仕事に他ならないからである。
「勿論です。お引き受けした以上、命ある限り甲様を守りします」
「それはありがたい。しかし、儂がお前さんを連れて行きたいのには別の理由がある」
「別の?」
「儂らはいずれ相房に対して事を成さねばならん。偽の公子が世情を騒がしている以上、そう遠くない未来にな」
甲元亀は明らかに重大な秘事を打明けてくれている。それだけ信用させているということであり、樹弘はそのことを感じて胸が熱くなってきた。
「その時に有用な人材が必要となってくる。儂はそのことをお前さんに期待しているのだ」
「そんな……」
それは完全な過大評価であった。ようやく文字を読めるようになった人間に何ができようか。樹弘がそう言い返そうと思っていると、甲元亀が先に口を開いた。
「自分に学がないと言うのなら、それは些細な問題だ。学問などは人を飾る装飾でしかない。芯の部分は別にある」
「しかし……」
「まぁ、そういう話はここを脱出してからゆっくりとしよう」
ひとまずは今夜のことに集中しよう、と甲元亀は締めくくった。樹弘としても異存はなかった。




