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七国春秋  作者: 弥生遼
孤龍の碑
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孤龍の碑〜3〜

 青籍が范李宅を出たのは夕刻であった。自宅に戻り、夕食の準備をしていると、戸が叩かれた。こんな刻限に誰であろうかと出てみると、一人の男性が立っていた。范李の息子で范玉の父親である范尚であった。

 「先生、拙宅に寄られたのでしたら声をかけてくださればよかったのに」

 范尚は酒瓶を眼前にちらつかせた。年頃が近いせいか、范尚とは時たま酒を酌み交わしていた。

 「それでわざわざ来られたのですか?」

 「今日はちょっと白鬢まで行っておりまして。いい酒を買ってきました」

 わざわざ来てもらって帰すわけにもいかないので青籍は范尚を中に入れた。二人は早速囲炉裏を囲み、一献酌み交わした。范尚が仕入れてきた酒は確かに美味で、青籍は夕食にするつもりであった焼き魚をつまみに提供した。

 「実は白鬢で少し気になる情報を仕入れてきました」

 他愛もない話をして酔いが回ってきた頃、范尚がやや改まった口調で話し始めた。

 「何でしょうか?」

 「禁軍がまた敗北したようです」

 青籍を複雑にさせる情報であった。もはや禁軍は青籍とは関わりがない。しかし、禁軍が敗北したとなれば、最北部にある霊鳴にも戦火が近づいてくることになる。

 「ここ数年、禁軍は敗北続きですな。極はそれだけ強いのですか?」

 范尚は青籍の前歴を知る数少ない人物である。それだけに青籍に色々と尋ねたいのだろう。

 「さてね。私にはもう分からないですよ」

 本当に分からなかった。三年も経てば敵も味方も様変わりする。ましてや近年どのような戦闘を繰り広げてきたのかもほとんど知らず興味もなかった。

 『龍国が国家として滅んでも霊鳴は残る。それでいい』

 青籍は本心としてそう考えていた。つい三年前まで龍国禁軍の中枢にいた男とは思えない考えだと我ながら思った。

 「ですが、このままで行くと、やがて国都が極に包囲されてしまいます。噂では先生への使者が国都を立ったということです。捲土重来とはこのことではないのですか」

 范尚は明らかに興奮していた。二十歳にも満たない少年ならまだしも、家庭を持っている年長者がここまで戦のことで興奮するものなのかと青籍は意外な感じがした。

 「私はもう禁軍の人間ではありません。戻ることもないでしょう」

 戻りたくもないし、仮に戻ろうと思っても、その道は阻まれるだろう。青籍への使者が立ったというのも流言飛語の類に違いない。青籍の脳裏にはもう戦のことなど片隅にもなかった。

 「祖国が危機に瀕しているのに先生のような人が田舎で燻っているのが悲しいのです」

 范尚は言った。祖国の危機。それは間違いではないだろう。しかし、その祖国に裏切られた青籍としては、あまり心動かされる台詞ではなかった。

 「国が滅んだとしても人は残ります。そう思わねば庶民は生きていけませんよ」

 かつて禁軍の将軍であった青籍は、ここで庶民として生き死ぬつもりであった。だが、その志を挫けさせる足音が近づきつつあった。


 数日後、青籍はいつものように自宅傍の畑で農作業に従事していた。一通りの作業を終え、一息ついていると、どうにも邑の集落部が騒がしくなっているのに気がついた。何事かと訝しく思っていると、范尚が息を切らして走ってきた。

 どうしたのですか、と青籍が言う前に范尚は息荒く叫んだ。

 「せ、先生!国都からの使者です!し、使者です!」

 青籍は農具から手を離し、歩き出していた。使者が来たことへの驚きや喜びはなかった。ただ誰が来たのか確かめ、自分の意思をはっきりと伝えてやろうと思った。

 范尚と一緒に邑の集落部に戻ると、范李の家の前に馬車が一乗止まっていた。馬車の周りには人だかりができていて、それに対して四人の衛兵が馬車を守るようにして立っていた。その馬車を見て青籍は息を飲んだ。四頭の馬に引かせた黒塗りの馬車。それは国主とその血族にしか許されていない馬車であった。

 青籍は引き返すべきであったかもしれない。もはや隠遁生活にある青籍には関わりのない人々が乗る馬車である。しかし、何か目に見えない魔力のようなものが青籍の足を范李宅に誘った。衛兵達は青籍を咎めることはしなかった。

 挨拶もなく范李宅の軒先を跨ぐと、そこには非常に不釣合いな情景が広がっていた。薄暗い土間に一人の麗人が立っていた。背中の中ほどまで伸びた金色の髪は見間違えるはずがなかった。

 「青籍ですね。待っておりました」

 たっぷりと裾の広がった衣装をふわりと翻しながら振り向いたのは忘れもしない女性。龍国の姫君であり、青籍の許婚であった龍悠であった。

 「姫様……」

 龍悠以外には衛兵が一人と范李しかいない。使者というのは龍悠なのだろうか。そうだとすれば、あまりにもあざとくも卑怯であった。

 「あまり変わらず、安心しました」

 「どういうつもりですか?誰の差し金ですか?」

 青籍は刺々しくなってしまった。過去の経緯を考慮すれば、青籍は寧ろ感情を抑えているほうであった。龍悠が悲しい顔をしても青籍は一切感情が動かされることはなかった。

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