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七国春秋  作者: 弥生遼
蜉蝣の国
113/963

蜉蝣の国~33~

 それからも伯淳は度々樹弘達を召し、その度に側近になって欲しいと要請されたが、樹弘が首を縦に振ることはなかった。

 「家臣にならないまでも顧問官とかそういう立場じゃ駄目なのか?」

 紅蘭は樹弘と二人きりになると、度々そのように切り出した。樹弘の正体については未だに分からずにいるが、泉国に係わり合いがあるのは明らかであった。だから伯国の臣にならないまでも、相談役とか顧問官なら立場としては軽いし、泉国と伯国の友好のためにもなるのではないかと紅蘭は考えていた。

 「仮にそのようにしていつまでするつもりなんだ。結局は伯淳は国主として自立していかなければならないんだ」

 樹弘は厳しかった。確かにそのとおりなのだ。正論過ぎる正論なのだが、正論というのは時として理性では理解できないものであった。

 「樹弘は何をしたいんだ?戦争を回避したいのなら、寧ろ樹弘が積極的に伯国の政治に参与すべきではないのか?」

 「それでは傀儡だ。僕は戦争回避を望んでいるし、伯国の自主独立を望んでいる」

 紅蘭はまたしても言葉に詰まった。樹弘の正体が何者なのか、本心がどこにあるのか、紅蘭はまだ掴めずにいた。

 ただ、樹弘にも迷いがあるようで、さっきからずっと悩ましげに眉をしかめていた。

 「樹弘。君が泉国でどういう立場の人間なのか知らない。今でもひょっとして樹弘が真主樹弘じゃないかと疑う時もある。でもこの際、そんなことはどうでもいいと思っている。ただ曖昧なままでいると、誰も幸せにならないと思うんだ」

 その言葉は紅蘭の自戒の念でもあった。家を飛び出した時も、偽泉公の蜂起に参加した時も、紅蘭の思考に明確な信念があったのか疑わしい。ただ勢いに任せて行動に出てしまい、何事を得たのか、自分を含めて誰かの為になったのか。紅蘭としては首をひねるしかなかった。

 「私はね、国家の正義とは何かということをずっと考えてきたんだ」

 紅蘭の独白は取りとめがなかった。その無秩序さを恥ずかしく思ったが、止めることができなかった。

 「国家に正義があれば貧富の差を放置しておくはずがない。逆に言えば、それこそが国家の正義だと信じていた。でも、樹弘と会って伯国に来てなんとなく分かったことがある。人民にとって国家はあまりにも重い」

 むしろ国家などないほうが人のためになるのではないか。国家などという存在あるからこそ、人民は苦労するのではないか。この思想があるいは危険なのかもしれない。

 「得たものといえば、その程度だ。官吏になりたいという気持ちに変わりはないけど、あるべき国家像というか政治のあり方が分からなくなってきた」

 「そんなもの僕にも分からないさ」

 樹弘は静かに言った。

 「分からないからこそ人々は考えてきたんだ。答えが見つからないからずっとずっと考えなければならない。それが政治なのかもしれない。相房がいかなる理想で反逆を起こして国主となったのか知らない。でも相房の政治は間違っていたから、偽公子も正そうとした。紅蘭もそれに付き従おうとした。結果として真主が乱を正したというだけで、そこに正邪はないと思うんだ」

 だから紅蘭も間違っていない、と樹弘は断定してくれた。

 「国家というものは人民がよりよく生きるための方便のようなものだと僕は思っている。国家を正すのはそこに住んでいる人々の権利である同時に義務なんだ」

 だからこそ伯国のことは伯国の人々によって動かされるべきなのだ、という樹弘の強い信念を紅蘭は感じた。

 『私は未熟だな』

 同じ迷いがあっても、樹弘の迷いのほうが成熟していた。もし樹弘が本当に真主であったのなら、まこと泉国はよき真主を得たのだと紅蘭は嬉しく思った。


 衛環での日々が続いていた。すっかりと客人としての生活に慣れた樹弘は、一人で衛環の宮殿を歩き回ることも多くなってきた。宮殿を警備する衛兵達とも顔見知りになり、来たばかりの時は色々と誰何されたが、今となっては気さくに会話を交わすこともあった。

 『そろそろ泉国に帰るか……』

 伯淳は自分の意思を持って政治を行おうとしている。それに対して閣僚達も概ね従おうとしているようだった。この様子であれば、伯国が暴走的に泉国を侵すことはないだろうし、伯淳が主導的になって流民対策を行えれば、泉国に流れてくる流民も減少していくであろう。

 『あんまり留守にしていると、朱麗さん達にも迷惑かけていまうもんな』

 ただそのことをいつ切り出すかについては、まだ思案している最中であった。この日も、そのことをぼんやりと考えながら宮殿の中を散歩していると、物陰から男女の言い争う声が聞こえてきた。双方とも凄い剣幕であった。

 『おやおや……』

 泉春宮ではあり得ぬことであった。泉春宮で文民を統制しているのは備峰である。厳格をもって知られる備峰が目を光らされている限り、官吏達が廊下で私語をするなど考えられぬことであった。ましてや痴話喧嘩などもって他であった。

 余計なお世話かもしれなかったが、血を見るような事態になってもいけないので、樹弘はわざとらしく咳払いをした。するとぱっと物陰から飛び出してきたのは李炎であった。彼は樹弘の存在に気づかず、そのまま小走りに去っていった。

 「ありがとうございました……」

 続いて出てきたのは柳祝であった。樹弘が驚いていると、柳祝も樹弘の存在に驚いたのか短く息を飲んだ。

 「夏弘殿でしたか……その……ありがとうございました」

 柳祝は気まずそうに俯いた。しかし、李炎のように逃げ出すような素振りがなく、樹弘の言葉を待っているようでもあった。

 「差し支えなければ、何を言い争っていたのですか?」

 「その……実は李炎殿に言い寄られていまして」

 柳祝の答えは意外であった。樹弘はてっきり伯淳のことで揉めているのではないかと思っていた。

 「李炎殿が……ね」

 柳祝の美貌なら言い寄ってくる男が数多いてもおかしくないだろう。だが、あの李志望の弟である李炎が相手となると、それも意外に思えた。

 「李炎殿は実直な武人かと思っていたけど」

 「以前から色目を使われているとは思っていましたが、直接的に言い寄られたのは今が初めてでした」

 柳祝の瞳に怯えの色が見えた。あるいは男に言い寄られること事態が案外はじめてなのかもしれない。

 「僕は余所者だから余計な口をさしはさむつもりはないけど、あまりにも執拗なら李将軍にでも相談してはどうですか?」

 「そうですね……そうします」

 柳祝は顔を上げて美しい眼差しで樹弘を見返した。そこにはもう怯えの色は消えていた。

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