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七国春秋  作者: 弥生遼
蜉蝣の国
110/962

蜉蝣の国~30~

 樹弘と紅蘭は伊賛の執務室に通された。広い部屋には上質な木材で作られた机に美しい天鵞絨をあしらった長椅子。樹弘には価値も分からない青磁の壷や裸婦の絵画が飾られていた。いかにも今をときめく権勢家らしい部屋だと樹弘は思った。

 「お呼びして申し訳ないですな。まぁ、かけてください」

 伊賛が着座を促した。尊大なところがなく、身構えていた樹弘が拍子抜けするほどであった。

 「それで僕達を呼んだ御用というのは?」

 「ふむ。主上を助けていただいたことの礼を言わねばと思いましてな」

 そうではあるまい、と樹弘は思った。

 「てっきり丞相閣下は僕達を李将軍の間諜であると疑っているのかと思っていました」

 「お、おい!夏弘!」

 紅蘭が声を上げたが、樹弘としてはここでひとつ鎌をかけておこうと思った。

 「ほほほ。確かに当初はそのように思いましたが、今は違います。間諜が自ら間諜であるとは言いませんからな」

 「そう思わせておいて実は、ということもありますよ」

 「ふむ。夏弘殿は聡明ですな。主上がお傍に置きたいと申されるのも頷けますな」

 伊賛は値踏みするように樹弘を睥睨した。

 「そうなると私と李将軍の確執についても知っているということですかな」

 樹弘が頷いてみせると、伊賛はため息をついた。

 「やはりそのような噂が流れていますか。それは大いなる誤解というものです」

 「誤解?」

 少なくとも李志望の話を聞く限りは誤解ではあるまい。あなたが伯淳を亡き者にしようとしているのではないか、と率直に聞きたかったが、流石にそれは思い留まった。

 「世間では私が主上を誅しようとしていると言われているようですが、まさに根拠のない誹謗中傷というものです」

 伊賛の言葉がどうにも弁解がましく聞こえた。樹弘は逆に怪しさを感じた。

 「確かに私と李将軍には考えの違いがあります。しかし、それが理由で誹謗中傷を受け、非難されるのは心外というものです」

 「それで丞相閣下と将軍の確執とは?」

 樹弘が問うと、泉国とのことです、と伊賛は答えた。

 「将軍は泉国と争う姿勢を見せていますが、私は泉国と恭順すべきだと考えています」

 この伊賛の意見は、樹弘にとっては意外であった。伯国の人臣は揃って泉国に対して好戦的だと思っていたのだが。

 「しかし、李将軍は泉国が攻めてこなければよしという姿勢だと伺いましたが?」

 「泉国では真主が立ち、国力が充実してきていると聞いている。そうなれば、泉国が伯国我が国を攻めない道理がないでしょう」

 それが泉国と伯国の因縁である、と伊賛は言いたいのだろう。樹弘としては、非戦を前提とする伊賛の意見が歓迎すべきなのかもしれない。それでも樹弘は伊賛に対して反感を禁じえなかった。

 「伯国は仮国とはいえ百年の歴史があります。一朝一夕で失ってもいいものなのですか?」

 「戦となれば国民の命が失われる。国家の歴史とは変えられますまい」

 伊賛はいかにも人民のことを慮っているようであった。伊賛の考えは、伯国との戦争を回避したいと考えている樹弘のそれと概ね合致している。しかし、それでも樹弘が伊賛のことを全面的に信じられなかった。

 『国家の要職にあるにも関わらず社稷を軽んじている者の言にどこまでの重みがあるのだろうか』

  国家の要職にあるものが人民の生命を気にかけるのは当然であろう。だが、それと同時に国家そのものも愛しなければならない。丞相ならば、人民と国家の双方を活かす道を探すべきではないだろうか。伊賛が本心で人民のことを考えているとは思えなかった。

 『まるで何暫だ』

 何暫とは二百年ほど前に実在した泉国の官吏である。酷吏であったと歴史好きの景青葉が教えてくれた。

 何暫は人民の生活を平穏で安定的なものにするとして、とてつもなく厳しい刑法を制定した。彼は法をもって人民を律することこそ国家のあるべき姿だと考え、他者を騙した者は死罪、他者から盗んだ者は死罪、他者を傷つけた者は死罪、他者を殺した者は死罪、という後世有名になる『四死の法』を制定した。

 何暫にとって人民の生活の為という文言は苛烈な法律を制定するための方便でしかあらず、この法のせいで人心が荒廃し、逆に犯罪が増加しても改めることなく、さらに苛烈な法を制定する始末であった。

 何暫が本心で人民を愛していなかった証拠に、彼の法の下で刑死した民衆の数は一万を上回ると言われ、一邑が丸々刑罰に対象になって住民が消えたということもあった。

 結局、何暫は人民の怨嗟の的になり、各地を巡察する道中で暴徒となった民衆に惨殺された。時の泉公も何暫の生前の地位を剥奪し、罪人として晒さねばなるぬほどあった。

 伊賛と何暫ではやや立場は異なる。しかし、今の伯国の荒廃を放置している伊賛の人民の為という言葉は、何暫の政治姿勢にも似てあまりにも空虚であった。

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