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七国春秋  作者: 弥生遼
蜉蝣の国
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蜉蝣の国~27~

 翌日、伯淳は再び夏弘を召して、剣術を教えて欲しいと頼んだのである。

 『伯淳が剣術なんて意外な……』

 柳祝が知る限り、伯淳は剣などとは無縁な少年であり、寧ろ進んで遠ざけてきたところがあった。きっと夏弘という兄貴的な存在と出会うことで刺激を受けたのだろう。そもそも伯淳の周辺には同年代の男性はひとりもいなかった。

 伯淳は宿舎の庭で夏弘の隣に立ち、懸命に剣を振るっている。夏弘が伯淳によい影響を与えてくれればいい、と柳祝は思った。

 それにしても夏弘は不思議な男性であった。常に穏やかな、爽やかな清風のような風貌をしながらも、伯国軍の中でもおそらくは並ぶ者がいないであろうほどの剣術を持ち合わせている。それでいてそのことを鼻にかけることもなかった。柳祝は個人的にも夏弘に興味を持った。

 柳祝にとっても、同年代の男性と出会うというのは非常に珍しいことであった。伯淳の護衛を勤めている李炎とは何かと過ごす時間が多かった。しかし、柳祝は李炎が苦手であった。

 李炎は明らかに柳祝に好意を寄せていた。単なる好意というのではなく、柳祝の美貌と肉体に対する興味と言ってもいいだろう。泉春にいた頃から男性の体を嘗め回す視線に敏感であった柳祝には李炎の下心の見せる言動があまりにも不快であった。

 『奥方がいる身でありながら……』

 しかも李炎は既婚者であった。そのことが柳祝をさらに不快にさせていた。

 今も李炎は伯淳と夏弘の鍛錬を眺めているようで、時折こちらをちらちらと見ている。嫌な気持ちになった柳祝は、彼の視線から逃れるようにして木立の影に入った。紅蘭が気にもたれかかるようにして本を読んでいた。柳祝に気がつくと、本をぱたりと閉じた。

 「ごめんなさい。お邪魔だったかしら」

 「いえ、別にいいんですよ。ちょっと目も疲れてきたところですから」

 自然と柳祝は紅蘭の隣に座った。紅蘭も年頃としては柳祝と同じであろうか。柳祝もまた同年代の女性というものを傍に持っていなかったので、紅蘭の存在はひどく新鮮であった。

 「随分と難しい本を読んでおられるのですね」

 紅蘭が読んでいた本の題名が目に入った。柳祝は文字を読むことはできたが、学問はやったことがなかった。

 「太古の賢人、子仲が書いた『清風政談』です。子仲が理想とした政治を綴ったもので、私の座右の書なんです」

 座右の書というだけあって、その本は汚れ所々傷んでいた。長年の間、何度も何度も繰り返し読んだのだろう。

 柳祝は純粋に紅蘭を尊敬した。女性ながら学問をし、政治に関する本を読んでいる。とても柳祝にはできないことであった。

 「おかしいでしょう?女なのにこんな本読んでさ。印国ならまだしも、他の国で血族によらず女性が政治に参加できるはずないのにね」

 それでも私は官吏になりたい、と紅蘭が天を仰いだ。柳祝は心底羨ましかった。紅蘭の自由さと将来に対する夢を持っていることが。

 それに対して柳祝はどうか。国主の世話係というのは、伯国の現状を考えればとてつもなく恵まれていた。しかし、その境遇に未来があるのか自由があるのかと問われれば、決して首肯することができなかった。

 「おかしくないです。きっと世界は広く広がっているんです。そこに漕ぎ出せば、どんな無謀な夢でもきっといずれは夢ではなくなるんだと思います」

 「柳祝さん?」

 「変なことを言いましたね。ごめんなさい。でも私は紅蘭さんが羨ましいんです。そうやって夢を語れて、広い世界が見られるのが。所詮、私は狭い世界しか生きてきませんでした。贅沢なのかもしれませんけど……」

 「羨ましいか……」

 紅蘭が遠い目をした。彼女は彼女で羨む人がいるのだろう。人の人生とは思うようにならぬものだと柳祝は思った。


 それから伯淳は毎日のように夏弘を召し出した。剣術を教えてもらったり、近辺の視察に同行させたりした。当初は夏弘を召し出すことに対していい顔をしなかった李志望も、夏弘が伯淳に好影響を与えていると見たのか、あまり何も言わなくなっていた。

 そして伯淳が嶺門に来て二週間が過ぎた。伯淳は国都衛環に戻らなければならなくなった。出立の前夜、李志望は柳祝と李炎、そして夏弘と紅蘭を呼び集めた。

 「こうやって呼び出しのは他でもない。明日、主上が衛環に戻られる。事情は知っておろうから、主上の身辺には十分に注意して欲しい」

 これは主に李炎に向けられた言葉であった。李炎は深く頷いた。

 「それと夏弘殿。ぜひ主上と同行して国都へ行ってはもらえまいか」

 夏弘はそのように言われることを予期していたのだろう。驚いた様子はなかった。

 「夏弘殿達が旅の途中であることは重々承知している。しかし、今の主上には味方があまりにも少ない。頼む、主上を守って欲しい」

 大柄な李志望が夏弘に対して深々と頭を下げた。柳祝としても、夏弘が衛環に来てもらえるのならありがたかった。

 しかし、肝心の夏弘は目を閉じてじっと考えていた。柳祝は頷いて欲しいと心の中で祈った。

 「紅蘭、どうする?」

 「任せるよ。急ぐ旅でもないしさ」

 紅蘭と短い会話を交わした夏弘は静かに口を開いた。

 「分かりました。ですが、ずっとというわけにもいきませんし、僕の力にも限界があります。速やかに主上が健やかに過ごせるような状況を作ってください」

 「勿論だ」

 ほっとしたように李志望は頷いた。嶺門を離れるわけにはいかない李志望にとっては、味方が一人増えるかどうかは切実な問題であった。

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