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七国春秋  作者: 弥生遼
黄昏の泉
10/913

黄昏の泉~10~

 樹弘が連れて行かれたのは、集落の中で一番大きな娼館であった。樹弘は一度拒んだが、雲札は強引であった。

 『ここは俺の親父がやっている宿だ。一番の女をつけてやる』

 それがこの集落の流儀だ、と雲札は言って譲らなかった。

 娼館の最上階の部屋に案内された。この階に一室しかなく、赤い絨毯に大きな寝具、ゆったりと寛げる椅子もあった。また風呂も併設されており、樹弘が見たこともなき広い湯船であった。

 「まぁ、ゆっくりとなさってください。まずは湯におつかりください」

 部屋を案内してくれたのはここの主。雲礼の父親で雲彰と名乗った。この集落の代表者でもあった。

 「私は……その……」

 「お代なら心配せんでください。この村を守ってくれた人からお代なんか取れません」

 そういうことではない、と言いたかったが、雲彰は樹弘の言葉など耳を傾ける様子もなく、部屋を出て行った。どうしたものかと思案したが、風呂には入りたかった。桃厘を出て以来、川で水浴びをした程度で風呂には入っていない。温かい風呂に浸かりたい欲はあり、思案の挙句その欲に負けたのであった。

 適当に衣服を脱ぎ捨てて湯船に浸かった。湯が体中に染み渡っていった。

 しばらく湯を堪能していると、浴室の戸が開けられた。一糸纏わぬ女性が入ってきたのである。樹弘が初めて見る女性の裸体であった。興奮するよりも突然のことに呆気に取られ、ただただその裸体に見惚れるだけであった。

 「あんたが助けてくれたんだね。ありがとう」

 美しい女性であった。にこりと微笑みながら、湯船に浸かる樹弘の手を取った。

 「体洗ってあげるから、あがりなさいな」

 樹弘は黙って頷いた。女性に丹念に体を洗ってもらってから、浴室から出た。

 浴室に出ると、当然のような流れで寝台へと向かった。しかし、男女の作法知らぬ樹弘がおろおろとしていると、女性が笑みを浮かべて聞いてきた。

 「ひょっとして初めてなの?」

 樹弘はやや羞恥を感じた。誰しもが初めての瞬間があるにもかかわらず、面と向かってそのことを問われると、男として恥ずかしさが沸いてきた。

 「そう……」

 得心したとばかりの表情をした女性は、突然に樹弘の唇を吸ってきた。その柔らかい感触に、樹弘の体は一瞬にして蕩けた。

 それから樹弘は、女性からの手ほどきを受け、初めて女性の体を受け入れた。その官能の感触は、これまで樹弘が経験してきたいかなる物事よりも衝撃的で快楽的であった。夢中で女性の中に己の精を発散させていったが、同時にこれに溺れては身を滅ぼすという危険性も感じられた。

 何度目かの事が終わり、精根尽きた樹弘は女性の胸に顔を埋めた。

 「初めてが私みたいな女で良かったのかい?」

 それは商売女であることを言っているのだろうか。確かに最初は抵抗はあったが、蕩けるような体験をしてしまうと、そのようなことはどうでもよくなっていた。

 「そんなことないです」

 「そう。私はこういう礼の仕方しか知らないからね。あんたが助けてくれたのは、私の娘なんだ」

 樹弘は驚いた。この女性にとても子供がいるようには見えなかった。

 「誰の子か知らないよ。こういう商売をしているとね。でも、後悔はないよ。こういう商売をしないと私らみたいな人間は生きていけないんだ。今はそういう時代だよ。私も親父も兄貴もね」

 私は雲華って言うんだ、と女性は言った。

 人はここで働き人達のことを蔑むかもしれない。しかし、ここには為政者によって作られてしまった混沌の世界を必死に生きようとしている者達がいる。それはあるいは、緑山党の連中や蘆明のような男も同様かもしれない。だが、少なくともここの者達は他者を排斥したり、傷つけたりすることはない。手を取り合って必死に生きている。そこには人としての清清しさがあった。

 『僕はどうなのだろう……』

 将来への絵図面すらなく、惰性の中で生きている。別に生きることに必死になっているわけでもなく、この世界で生きることに絶望をしているわけでもない。ただ生かされているだけの存在であった。

 「樹弘はこれからどうするんだい?」

 「泉春に行きます。それだけはやり遂げないといけないんです」

 「ふうん。もしさ、その目的が終われば、ここに帰ってきなよ。あんたの剣の腕なら兄さんの助けになるからさ」

 雲華が樹弘の下腹部に触れた。それだけで樹弘のものは反応してしまい、樹弘は雲華の問いかけには答えず、彼女の腰を力強く抱き寄せた。


 翌朝、樹弘は泉春へ向かうべく出発した。雲札、雲彰、そして雲華までが見送ってくれた。

 「樹君。泉春での用事が終われば、ぜひここで働かないか。君の腕があると自警団として心強い」

 雲札は雲華と同じようなことを言ってきた。樹弘は愛想笑いだけを浮かべ、明確に回答しなかった。

 『ここでの暮らしも悪くないのかもしれないけど……』

 何はともあれ、泉春へ行ってからであった。そこで食い扶持を見つけられなければ、またこの集落に戻ってくればいい。樹弘は集落を後にして泉春へ向けて北上した。

 娼窟の集落を出た翌日のことであった。樹弘と行き違うように南下してくる集団が遠望された。黄色の旗をはためかせた軍勢であった。

 『禁軍だ……』

 要するに相房の軍隊である。どうしたものかと眺めていると、隊列を抜けて二騎の騎馬がこちらに向かってきた。

 「そこの商人、止まれ」

 そう命じられ、樹弘は素直に馬車を止めた。

 「商用の途中で失礼する。貴殿は南から来たのだな?」

 騎馬に乗った武者の一人が尋ねてきた。思いのほか丁重な言動で、樹弘はやや警戒心を解いた。

 「そうです」

 「ふむ。この近辺で緑山の賊徒を見なかったか?」

 彼らは緑山党を討伐に来たのだろう。彼らは単なる賊ではなく、公子淡に協力したとなると相房としても無視できなくなったのだろう。

 「見ました。ここから少し南へ行った所で、そんなに数がいるわけではなかったですが……」

 樹弘は娼窟のことは黙っておいた。騎馬武者は樹弘の言っていることを疑っている様子もなく、もう一人の騎馬武者と言葉を交わした。

 「これから泉春に向かうのなら問題ないが、この近くで賊徒どもと戦いになるかもしれん。気をつけられよ」

 「近くに緑山党の集団がいるんですか?」

 樹弘はわざと恐れをなしたように言った。本当は緑山党と公子淡の軍勢の情報を知りたかったのだ。

 「我々も詳細な位置は知らぬのだが、謀反人と手を組んで世情を騒がしているからな」

 では、と二人の騎馬武者は隊列に戻っていった。

 『緑山党と供に公子も討つつもりなのだろう』

 樹弘の推測は当たっていた。相房は公子淡の討伐を主眼においていた。

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