異常
真っ白な雪のキャンバスを鮮やかな赤色が染め、街灯のスポットライトがそれらを際立たせる。
男性にまたがる彼女は苦しみながら恐怖しているその姿を愉しみ、笑みを浮かばせていた。
雪のように真っ白な肌、真っ赤な唇。その笑顔と姿は妖艶で、清純で、幻想的で、現実的で……自分が言えるすべての表現をもってしてでも、言い表せないほど美しい。
誘われるように彼女に近づく。しかし、彼女は俺に気がつくと、何処かに逃げてしまった。
横たわる男性に目を向ける。白目を剥き、胸は上下する気配はなく、血の気が失せており、確実に死んでいる事は素人の目からでも明白。
不気味なほど穏やかだった俺の心拍数はようやく上がり、震える足でその場から離れた。
『昨日の十九時ごろ。N市内の路上で男性の死体が発見されました。何度も刺されている形跡がある事から、最近出没している通り魔の犯行として捜査が進められています』
あの事件はすぐにニュースとなり、大衆の耳と目に入った。
本来なら目撃者である俺は犯人を見た事を言うべきなのだろう。だが、俺はそうしなかった。彼女に恋い焦がれ、憧れてしまっていたから。
「流石、春樹君。あなたの絵はいつ観ても素晴らしいわ」
キャンバスに描いた羽ばたく鳥達を観ながら賞賛する講師。ぞろぞろと他の学生も俺の絵に群がり、そしていつものように口をそろえてこう言う。
「まるで本物みたいだ」
俺が最も嫌う言葉だ。
結局この絵は存在するものを百パーセント表しただけ。元々持つ美しさをそのまま絵に写しただけ、ただの写真。努力すれば為す事が出来る人間業でしかない。
巨匠と呼ばれる芸術家の殆どは変人、異常でありながらも描いた絵画はどれも素晴らしい。
存在しないものを描けば人を引きつけるだけの魅惑を持ち、存在するものを描けば本来持つ魅力を百二十パーセント引き出す。
俺は異常性が欲しい。異常性を持った彼らが見える世界を知りたかった。そうすれば俺の絵はこれまで以上に素晴らしいものになると断言出来るからだ。
だから、俺にないものを持つ彼女を憧れの対象にするのも不思議な事ではない。
瞼を閉じれば、異常者の彼女が作り上げたあの赤色が鮮明に浮かび上がるほど強く焼き付いている。嫌な感情はない。むしろ羨望していた。
講師がアトリエを去ってからも残った俺はキャンバスと向き合う。
あの赤色を絵に浮かばせたい。そう思っただけで体は意思を持ち、筆でキャンバスを嬲る。
気がつけばキャンバスの白地を埋め尽くすほど赤色で埋まっていた。
「は、春樹君。大丈夫?」
女学生に声をかけられ、俺はキャンバスから視線を外す。居残っていた学生達が異様なもの見る目で俺を見ている事に気がついた。
ただの試し塗りに何をそんなに驚く事があるのか。周りにも同じように試しにキャンバスに塗っているじゃないか。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「えっ、いやその……」
言いたい事があるなら早く言ってほしい。
「ごめん。私の気のせいかも」
「あっそう」
怯えているようにも見えたがどうでもいい。ただの学生になんか興味がない。
俺はもう一度真っ赤なキャンバスと向かい合った。
明るい赤、暗い赤、薄い赤、濃い赤、どす黒い赤……多種の赤が主張していたがあの赤色は何処にもない。
苛立ちを覚えながら俺はまだ近くにいる女学生に声をかけた。
「ねぇ、鋏取ってくれない?」
「う、うん」
近くの机に置いてあった鋏を手渡し、俺はそれを受け取った。
使っている絵の具が違うからダメなんだ。彼女と同じものを使えば。
鋏で自分の右手のひらを切り裂く。隣から甲高い悲鳴が上がるが、この絵の具を使いたくて仕方がない俺は殴るように真っ赤なキャンバスにこすりつけた。
血の色は際立って浮かぶ。これであの赤色が出来る。そう思うと笑みがこぼれそうになった。だが、その色も求める色とは程遠い色を浮かび上がらせる。
大学のアトリエにさす茜色の光彩は無情にキャンバスを照らす。周りがやけに騒がしいが、期待を裏切られた俺は血の色が変色していくのをただ呆然と見つめ、傷を負った手でハンカチを握りしめていた。
その後の事はあまり覚えていない。いつの間にか帰り道を歩いていた。覚えている事は周りいた学生達の怯える表情だけ。
何故彼らはあんな表情をしたのか。俺はただあの赤色を再現したかっただけ。そう思いながら歩き続けた。時間はまだ午後六時にもなっていないのに辺りはすっかり暗くなり、冷たい風と雪が身に染みる。
無意識に歩いているといつの間にかあの場所まで来ていた。
今朝と同様にKEEP OUTの黄色いテープが張り巡らされ、通れなくなっている。
仕方なく遠回りをして帰る事にした。
道を歩いて行くにつれ人通りが少なくなる。道の周りは家を区切るためのコンクリートの外壁と気休め程度の街頭が点々とあるだけだった。
昨日の男性もこんな人通りの少ない感じで刺されたのか。そんな事を思っていると、後ろから強い衝撃を受ける。何が起こったのか分からない。
わき腹辺りからじんわりと生暖かい温度を感じ、羽織っている上着をめくる。視線を落とすと、白い服にあの赤色が広がっていた。
この赤色に再び出会えた事に対する感動の余韻に浸っていると、後ろから蹴飛ばされ、雪のベッドにうつぶせに倒れる。すぐさま体を仰向けにさせられた俺の目に入ったのは彼女の白い肌、赤い唇。そして、あの時の笑顔だった。
彼女は深々と振り上げた包丁を俺に突き刺す。鋭い痛みが体全体に走り、思わず悲鳴を上げる。
その後も彼女は何度も何度も突き刺しては微笑む。
今まさに殺されかけている。しかし彼女の姿、異常性に俺は見惚れていた。
異常的な彼女の姿はやはり綺麗だ。いつまでも見ていたい。だが、彼女の表情はみるみると恐怖の色が混じっていく。真っ白の肌は今では血の気のない不気味な白色に思え、唇は微かに紫色に見える。手についている血の色も何の変哲のない赤色に見えてしまう。
踊っていた心は静まっていた。
なんでだろうか。
「……あぁ、そうか」
霞んでいく意識の中、ようやく回答を見つける事が出来た。彼女とこの赤色に興味をなくした理由はとてもシンプルなもの。彼女を超えてしまった。ただそれだけ。
弱弱しい鼓動を体で感じながら俺は永遠の眠りへと落ちる前にあの真っ赤なキャンバスを思い出した。
あの赤色を求めて塗ったとはいえ、あれも立派な作品だ。そして、俺の最高傑作になるだろう。なぜなら異常者の俺が描いた最初で最後の作品なのだから。なら、名前を付けないといけないな。
そうだな…………
『イツノマニカ』