006
彼女の仕事は、歌うことだ、と言う。
結婚して、一緒に暮らすようになって、彼女の生活パターンと僕の生活パターンが大分ずれている事が分かった。
これにはすごく困った。
何せ、彼女が家を出る時間に僕はやっと起きるのだ。結局、僕が頑張って朝起きることにして、彼女に毎日の「行ってらっしゃい」は言えるようにした。彼女は、そんな僕の様子を見て、あの公園で毎日会えていたのは、本当にキセキだったんだね、と僕の腕の中で笑った。
「君は自宅警備員だもんね」
「な、失敬な。ちゃんと“仕事”はしてるじゃない」
「はいはい、そうですねー」
「こらこら、あんまし馬鹿にすると僕怒っちゃいますよ、き、み」
ちなみに、僕の生業は、本当に絵を描くことだけだ。一枚売れば、それなりの金額は手に入るし、なにより使う所がないから、お金には困っていない。
それを彼女に言うと、「イヤミな奴め」と彼女は僕をつついた。その細い身体を抱きこむ。彼女は声を上げて笑った。また、僕にしがみついて、耳の裏の匂いを嗅ぐような姿勢に落ち着いた。
「ずっと気になってたんだけど」
僕が言うと、彼女は少しだけ首をかしげて、「なあに?」と言った。その髪をすくいながら僕は彼女の耳元でささやく。
これなら痛くないはずだ。彼女は少し目を眇めながら僕の言葉を聞いた。
「歌うっていってもさ、何するの? 歌手………ではないよね」
「ん………何するのか、かぁ」
「いろいろあるけど、私の場合は、オペラでステージに立ってる。たくさんの曲うたったよ?
好きなのは、ハムレットのオフィーリア。………聞いてみたい?」
「シェークスピア? ねぇねぇ、それってどういう歌?」
「んー、歌って言うか………オフィーリアってね、愛する人に父親を殺されて気が狂っちゃう女の子なんだけど、」
「え」
「なんて言うのかな…………ともかくその女の子がハムレット―――――その愛する人ね―――――に当てつけみたいに歌うの。その歌がね、すっごい官能的な歌なんだけど、旋律がすごい好きで。
んー、んー、やっぱり上手く言えないや」
彼女の薄い唇から落ち着いたテンポの、決して暗いとは言い難い旋律が零れ出す。
目を閉じる。突然歌が止まって、僕は目を開く。
静かで、どこか心地いい沈黙が舞い降りていた。気がつけば、彼女は僕に全身をゆだねて、寝入ってしまっていた。
さっきまでご機嫌にお話ししてくれてたくせに。
子供みたいな人だ。それでいて………愛しい、人だ。
彼女と家族になってから、一か月がたつ。
彼女と過ごす日々。
それは、「おはよう」「おやすみ」を言いあえる日々。それは、「ただいま」で僕を迎えてくれる人が存在する日々。
ごはんをみんなで食べることができる、ということ。些細なことで誰かと笑いあえる時間。誰かの体温をいつでも隣に感じる空間。
独りじゃない、世界。
いろいろと、目の覚める事の多い日々だった。確かに僕を感じた、そんな、日々だった。
これからもきっと、
僕はそんな日々を過ごすんだ。
彼女と生きていく。
それが、僕の幸せだ。
§§§
式は、身内でこじんまりと挙げた。呼ぶ義務も無かったけれど、小父さんと小母さんを一応呼んだ。別に来てくれなくてもいいのに、来てくれた。
彼女がうれしそうに話してくれた、彼女の家族にも、会った。少し丸い輪郭の、優しい人たちだった。
「娘を、よろしく頼みます」
お義父さんは僕へ、深く腰を折って言った。
「娘から、耳のこと、ききましたよね。娘はずっと“あんな感じ”で………気味悪がられて、しまって。あんな娘ですが、どうぞ、末永く」
僕は笑った。
僕も、そうですから。
「―――さんは僕の太陽ですから。僕は精一杯、娘さんに愛想尽かされないよう、努力します」
彼女のウエディングドレスはそれはもう――――すごく、
キレイだった。
似合うかな、そう言った彼女をゆっくりと抱き寄せ、頬に軽くキスをした。彼女は肩をすくめ、ご機嫌そうに笑った。
「あなたも珍しく、かっこいいよ」
「なに、珍しくって」
「んふふっ」
さすがに今日はヘッドフォン、つけてないんだなと思って彼女の耳を見、僕は驚いた。
つけてる。
「ねぇ、これ」
僕はそれに触れた。彼女は得意げに胸を張った。
彼女がつけていたのは、いつもの黒くて大きなヘッドフォンではなかった。白い、レースの付いた、―――――ドレスに、よく似合う、
「すごいでしょ。今日のためにカバーつくってたんだ。さすがに今日ぐらいはこんなのつけたくなくって。………目立たないでしょ?」
耳を覆うようになった、花、だった。
「うん………かわいい」
彼女は笑った。
「ありがとう」
その時の、ほどけるような彼女の笑顔と美しさだけは、胸にしっかりと、焼き付いている。