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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
最終話 
70/70

「僕を愛した、貴女へ。」


「はい。もしもし?」


 ああ、きっと、あれだろうな。なんて、分かっていた。


 案の定、電話口からもれだしてきたのは紫苑の担任のヒステリックな叫び声で。

 少しだけ、紫苑を気の毒に思いながら、僕は彼女に返事をした。



 紫苑くんが、泣いてまた手がつけられないんです!


「……今、行きます」



 電話を切って、ため息をついた。つきん、といたんだ胸を服の上からそっと押さえて、息を吐いていく。

 泣きじゃくる紫苑の表情(かお)が思い浮かんだ。――――早く、迎えにいってやらなくちゃ。



 脱いだ白衣をたたんで、代わりに薄いパーカーを羽織りながら、玄関先で部屋の中を振り返る。



 がらん、とした部屋。

 描きかけのキャンバスが、無造作においてある。

 それだけの部屋。


 意味も無いため息がこぼれて、苦笑した。


 ここに確かな体温があった。

 それだけでいい。


 過ぎた時間はすっかり錆付いて、それでも暖かいまま僕の心の中で笑っている。

 


 § § §


 保健室のドアをそっと開けると、まず目に入ってきたのは紫苑の小さな背中だった。


 その背に寄り添って、撫でてくれていた女性が立ち上がる。立ち上がったことで広がったまっすぐな黒髪が、ぱさりと落ちて、先生は僕にお辞儀をした。


「御影さん」


 ふわり、と優しく相好を崩した先生に、どこか見覚えのあるのは、きっと僕の気のせいだ。



 部屋の隅で、耳を押さえうずくまる紫苑の背中を見やった。

 これは、いつものことだ。子供たちが好き勝手騒ぐ教室。不協和音の海の中で、紫苑はよく自分のキャパシティを超えて泣き出してしまう。


 そう、それこそ本当に手がつけられないぐらいに。

 ――………紫苑は、まだ、自分の声すら自分を苦しめることに気がついていない。


「……紫苑くん、今日はとっても辛かったみたいです」

「そう、…ですか」

「ええ、でも、だいぶ我慢できるようになってきたんですよ? ちょっとずつ、どうしたら自分が耐えられるのか分かってきてるみたいです」


 …彼女のように、か?

 いや、違う、彼女は逃げ回るだけだったのだから、紫苑はそれに向き合っているという時点で立派なものだと言うべきなのか。


「紫苑」


 呼ぶと、おもむろにその首が回った。

 焦点の合っていない、薄紫の瞳。どうやら泣いているうちに、頭が働くなってしまったようだ。これもいつもの事だから、慣れたものなのだが。


 眠たげにとろん、と溶けている瞳が、僕を見つけてまた溶けた。

 先生に会釈をして、僕は保健室の白い床に膝をつけ小さく腕を広げる。

「……おいで」


 小さな声。だが、今の紫苑には十分すぎる声量だろう。抱きあげたら、気をつかってやらなきゃな、と思いながら、しがみついてきた小さな身体を僕はそっと抱きしめる。


 お日さまの匂いがした。小さいこどもの匂いに、ともかく安心する。


 補聴器の上から、紫苑には大きすぎるヘッドフォンをかけさせた。苦しそうにしゃくりあげていた息遣いは、すぐに脱力仕切った、すんだ寝息に変わった。



 ふととなりをみると、先生と目が合った。

 ことは先生は、ふ、と息を漏らすようにして笑って、僕は、肩をすくめて声を殺して笑った。



「いつも、すみません」

「いえいえ」


 とんでもない。そういった先生は、またゆっくりと笑って。



「紫苑くん、お父さん来てくれてよかったね。紫苑くん、お父さん大好きだもんね」


「……え、そうなんですか?」

 先生が僕を見上げて、いたずらっぽく笑った。

「そうですよ? いつも保健室に遊びに来てくれると、お父さんのことばっかり話してくれるんです。お父さんもお父さんで紫苑くんのこと大好きだし……相思相愛ですね、親子で」


 いやあ、あはは…


 反応に困る。そして、困りきった末に、僕は視線を宙に浮かせながら言葉を探した。



「……紫苑は、」


「死んだ妻に、びっくりするほど似ているんです。目の色も母親譲りだし…、髪の質。大きな目、形いい耳だとか、薄い唇」


 まぶたの裏で、彼女が笑う。

 やわらかい、あの笑顔にどれだけ救われたことか――――――今は、消えて、居なくなっていたとしても。

 鮮やかな、その色は。


 僕をいつでもあの時間に連れ戻してくれる。


「それにほら、今もしてますけど。こうやって、僕に抱きつくとき、紫苑も妻も僕の耳の裏に鼻を突っ込むんです。くすぐったくて、でも幸せで。

 ああ僕この人と家族でよかった、なんて思える瞬間です」


 先生は終始、きょとんとした顔のまま、僕の言葉を聞いていた。どこかで見覚えのある漆黒の髪を揺らして、聞いていた。



 



 彼女がいなくなってから、もう、七年がたっていた。





 § § §


 気がつけば、と言って、それだけの七年だった。

 僕は年をとって29になって、紫苑は生長して七歳になった。


 彼女のことを想う時間もどんどん少なくなっている。




 こうやって、パレットに向かいながら、思い出して――――――――誰かに届かない物語を、僕は紡いでいる。


 終わってくれない物語を、紡いでいる。




 ただ、

 

 すごした時間が、君の出会いが、香る匂いが、ただひとつではない証明が、つぶしたイキが、貫いたナイフが、この世界の色が。


 君からの贈り物が。

 響いた音が。

 踏み出した一歩が。



  薄紫色の理由()



 僕の胸に刻まれて。刻まれた傷は――――――――――それは僕を形作る。


 だからさ、雫。

 忘れないよ? 大丈夫、覚えているから、



 薄紫色の理由は、きちんと、届いているから。



 .。o○.。o○.。o○



 これは、絶対の、絶体の秘密だ。


 世界に出逢って、あなたと出逢って、色とりどりの日々を見つけて。そんな私が、たとえ死んだとしても守りたい秘密が、ひとつだけある。



 私は、独りだった。


 一人ではなかったけれど、独りだった。



 そんな世界をこじ開けたあなただから。興味本位であのとき、声をかけてしまった私を受け入れてしまったあなただから。


 きっと、隠しきれるとは思えないけれど。




 私たちの宝物に込めた願い。どうか、そうであればいいと、そう込めた後付けの願いの意味は、


 それは、紫苑の花言葉。



 忘れたくない、と、そう願ってしまった。これから先、何があろうと、二人が離れて生きることになろうとも、この気持だけは、絶対忘れない。

 あなたと愛した、この気持だけは。


 決して忘れたくない。



 息を切らして、寝室に飛び込んできて、目を輝かせながら私に「紫苑だ、子供の名前、紫苑にしよう」と言った彼の顔が思い浮かぶ。

 もちろん、何も考えていない彼が、私が深い意味をそこにこめるなんて思いもしないだろう。


 でも、それでも。


 最後の言葉の代わりに、これだけ遺しておくね。



 慧くん。



 ――――――。



 ж ж ж



 風が、吹いていた。


 身を起こした草原の向こうで、彼女が手を振っている。吹き抜ける風になびく、その髪を押さえつけて、彼女は



 その言葉を言った。




「君を、忘れない。」












                                          了



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