004
「私はね、君に出逢えて本当によかったと思ってるんだよ」
おもむろに彼女が言った。
「何。急に」
茶化して、はぐらかそうとするけど、彼女は笑ったまま僕を逃がさない。「ねぇねぇ、君? ………いや、」
「あなた」
「……///っ!?」
「って、呼んでも、いいですか?」
「ちょ、ちょっと、タンマ………それ、ずる…」
ずる、と滑り落ちた顔の先に、パレッドがあった。出したての水彩絵の具が、僕の頬につく。僕の真っ赤に染まった顔を見て、彼女は吹き出す。
「ね、あなたその顔………絶対絵具のせいだけじゃないよねっ? ちょ、ちょっと……かわいいんだけど」
「ひ、ひどいよ君は……」
「んふふふふふふふ」
彼女は、たくさん、自分の事を教えてくれた。「こんなに汚いのは我慢できません!」って言って、僕の画材を片づけながら。僕の、色を口ずさみながら。
「私の家族はねぇ、お父さんと、お母さんと、妹と、弟。お父さんはあなたみたいにすっごく優しくて、お母さんは少しずぼらで、妹はキィキィうるさいけどすごくかわいくて、弟は、お父さんにそっくり。
いつかあなたに会わせてあげたいな。今はみんなと離れて暮らしてるけど、私の、大事な家族。
あなたも、いつかそこに」
「そうだな………私は、本を読むことが、好きだな」
「本も絵と同じ。音が聞こえる。やっぱり綺麗な作品は綺麗な音が聞こえるし、雑音は、雑音だわ」
「例えば?
んー………そうそう! 谷崎潤一郎の細雪とか!」
「あ、今どんな感じ?」
彼女は唐突に話をやめて僕の手元を覗き込んだ。「“ソナタ”熱情」
「んー、こんな感じー」
場所を開けてやると、彼女は僕にぴったりとくっついて、描きかけの絵を目をすがめて見た。
「ねえ、くすぐったいんですけど」
肩をゆさぶって一応自己主張する。顎が肩の関節にはまってくすぐったい。
「ええー、別にいいでしょう」
「え、やだよ」
「私もやだもーん」
じゃあ。と僕は脚を開いてその間の床を叩いた。「おいで、ここ」
彼女がおおげさに顔をしかめて見せた。その顔が赤い。お互い真っ赤になって、馬鹿みたいに見つめあって。
結果、彼女が負けた。
すとん、と僕の脚の間に彼女の体がおさまる。後ろからわきの下に手を差し入れ、きゅう、と抱き寄せると、彼女の体温がまた上がったのがわかった。
「ね、ねぇ」
彼女の頬に僕のをこすりつける。
「ちょ、ちょっと、ねぇっ」
「そのだっこしている間に無言になるの、や、やめっ………」
「あ、ごめん」
彼女はぐぅぅ、とせいいっぱいの力で僕に体重を乗せてきた。だが残念。実は君は君が思っている以上に軽いんだなー。
「君さ、それ、攻撃になってないよ? 全然。まったく」
「え!? う、うそ、え、やだっ」
「はは、あせってるー」
「だ、だって、あなたがっ」
少しだけ、その揺れる背中を締め付ける。ねぇ苦しいよ、と背中をそらして僕を見上げた彼女に、唇を落とした。
「!?」
「好きだよー。世界で一番、好きだよー」
「え、………あ、うん………」
「んー、わしゃわしゃわしゃー」
「やっ、んふふふー」
彼女は顔を真っ赤にして笑った。僕が頬をこすりつけたせいで、赤い絵の具がついてしまっている。僕も、そんな顔をしてるんだろうな、と思った。
パレットと、絵筆にその姿勢のまま、手を伸ばす。
描きかけのその絵に向きなおり、絵筆をそれに這わせる。




