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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第十三話 もう一度、その一歩
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「こんにちは」


 ドアを開ける。

 画材のいろいろな匂いが混ざった薄暗い店内の奥側で、主人が顔を上げるのが見えた。



「………ああ、あんたか」

「ご無沙汰、してます。紫が切れたんで」

「紫ぐらい混ぜれ(つくれ)ばいいじゃないか。………まったく、あんたは」

「あはは」


 あいまいに笑って、ごまかす。


 僕がこうやって来た理由を、この人はわかって言っている。……まったく、困った人だ。僕のことをからかっているつもりでもいるのだろうか。



 こうして、主人の店を訪れるのは、彼女がいるときよりずっと多くなっていた。

 この店の雰囲気が好きだった。

 空気、だとか、匂い、だとか。―――――音、だとか。


 それは紫苑も同じみたいで、紫苑はこの店に来るときだけは、決して泣き出すようなことがない。

 楽だったし、負担が少ないことを考えれば頼らせてもらえるなら、頼らせてもらうのが最善策だと思って甘えている。



 とりあえず、紫苑をそこらへんの机の上において、水彩絵の具の棚に向かった。“シオン”と出会った、例の棚だ。視線を滑らせ、紫を探す。

 紫はすぐに見つかった。場所はなんとなく頭の中に入っていた。


 シオン…――――紫苑。


 大切な色だ。そして、守りたい色。

 これからどんな辛いことがあって、また諦めそうになってしまっても、だ。



「………どうした?」

 何かあったか、と、紫に手を伸ばした形のまま固まる僕に、主人が声をかける。


「いえ、別に」


 答えた僕の声は、低く、かすれていて別人のものみたいだった。



「あ、そうだ、主人。ひとつだけ聞きたいことがあったんです」

「ん? なんだ」



「人って、死んだらどこに行くんですかね?」



 主人は、しばらく、黙っていた。僕は紫の水彩のチューブをじ、っと見つめたまま、身動きしなかった。

「…………さあ、」

 そう答えた声は、まるで、乾いた水のようで。


 つかみどころがなくて、どう両手に包み込めばいいのかわからない。



「わしはあんたよりも、確実に老い先は短いからな。確かに聞くとしたら―――――わしかもしれない。だが、こう思うよ。あんたもわかっているだろう」


 死んだら、人間はいなくなるんだよ。


「いなかったことにはもちろんならない。その爪あとだけが残って、記憶の中だけでその人は生きるようになって、もうどこにだっていなくなる。

 無、だ。

 天国や地獄があれば、と思うこともあるが、おもうからこそ、ないんだろうな。死んだ人間が行き着くところは、何もない、無だよ」



 振り返る。いつの間にか、主人はそこらにおいていたはずの紫苑を抱いていた。


「この子は本当にいい子だなあ、母親によぅく似ている」

「あ、本当ですか」

「うん、あの人も本当にきれいだったな」

「………はい」


 主人は僕のほうをみてはいなかった。にごった色の目でやさしく紫苑を見つめてくれている。骨ばった手でぎこちなく紫苑の小さな頭をなでているさまは、まるで本当のおじいちゃんのようで。


 もう、記憶の中にしかいない、大切な人たちのそれになんでか重なって。



 そっと、僕の心を暖める。



 思えば、ずっと何かを失くしてばかりだった。


 母の命を犠牲にして。

 父を失くして。

 人間であることを諦めて。

 愛した人すら奪われて。


 一度は描くことだってやめてしまった。



「………だけど、違う」

 そっと、声に出してみる。

 違う。失くしてばかりなんかじゃあない。



 いろんなものをもらった。


 あの、公園の、あのベンチの上で彼女と出会えてから――――――本当にいろんなものを。

 あたたかい時間。色。やさしい匂い。抱きしめた体温も…。


 そっと、口の中でつぶやいてみる。



 雫



 君のおかげだ。


 君がいてくれたから僕は光をみつけられた。

 しずく―――――――


 ――――――――――――――



「君を――――。」




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