065
「こんにちは」
ドアを開ける。
画材のいろいろな匂いが混ざった薄暗い店内の奥側で、主人が顔を上げるのが見えた。
「………ああ、あんたか」
「ご無沙汰、してます。紫が切れたんで」
「紫ぐらい混ぜればいいじゃないか。………まったく、あんたは」
「あはは」
あいまいに笑って、ごまかす。
僕がこうやって来た理由を、この人はわかって言っている。……まったく、困った人だ。僕のことをからかっているつもりでもいるのだろうか。
こうして、主人の店を訪れるのは、彼女がいるときよりずっと多くなっていた。
この店の雰囲気が好きだった。
空気、だとか、匂い、だとか。―――――音、だとか。
それは紫苑も同じみたいで、紫苑はこの店に来るときだけは、決して泣き出すようなことがない。
楽だったし、負担が少ないことを考えれば頼らせてもらえるなら、頼らせてもらうのが最善策だと思って甘えている。
とりあえず、紫苑をそこらへんの机の上において、水彩絵の具の棚に向かった。“シオン”と出会った、例の棚だ。視線を滑らせ、紫を探す。
紫はすぐに見つかった。場所はなんとなく頭の中に入っていた。
シオン…――――紫苑。
大切な色だ。そして、守りたい色。
これからどんな辛いことがあって、また諦めそうになってしまっても、だ。
「………どうした?」
何かあったか、と、紫に手を伸ばした形のまま固まる僕に、主人が声をかける。
「いえ、別に」
答えた僕の声は、低く、かすれていて別人のものみたいだった。
「あ、そうだ、主人。ひとつだけ聞きたいことがあったんです」
「ん? なんだ」
「人って、死んだらどこに行くんですかね?」
主人は、しばらく、黙っていた。僕は紫の水彩のチューブをじ、っと見つめたまま、身動きしなかった。
「…………さあ、」
そう答えた声は、まるで、乾いた水のようで。
つかみどころがなくて、どう両手に包み込めばいいのかわからない。
「わしはあんたよりも、確実に老い先は短いからな。確かに聞くとしたら―――――わしかもしれない。だが、こう思うよ。あんたもわかっているだろう」
死んだら、人間はいなくなるんだよ。
「いなかったことにはもちろんならない。その爪あとだけが残って、記憶の中だけでその人は生きるようになって、もうどこにだっていなくなる。
無、だ。
天国や地獄があれば、と思うこともあるが、おもうからこそ、ないんだろうな。死んだ人間が行き着くところは、何もない、無だよ」
振り返る。いつの間にか、主人はそこらにおいていたはずの紫苑を抱いていた。
「この子は本当にいい子だなあ、母親によぅく似ている」
「あ、本当ですか」
「うん、あの人も本当にきれいだったな」
「………はい」
主人は僕のほうをみてはいなかった。にごった色の目でやさしく紫苑を見つめてくれている。骨ばった手でぎこちなく紫苑の小さな頭をなでているさまは、まるで本当のおじいちゃんのようで。
もう、記憶の中にしかいない、大切な人たちのそれになんでか重なって。
そっと、僕の心を暖める。
思えば、ずっと何かを失くしてばかりだった。
母の命を犠牲にして。
父を失くして。
人間であることを諦めて。
愛した人すら奪われて。
一度は描くことだってやめてしまった。
「………だけど、違う」
そっと、声に出してみる。
違う。失くしてばかりなんかじゃあない。
いろんなものをもらった。
あの、公園の、あのベンチの上で彼女と出会えてから――――――本当にいろんなものを。
あたたかい時間。色。やさしい匂い。抱きしめた体温も…。
そっと、口の中でつぶやいてみる。
雫
君のおかげだ。
君がいてくれたから僕は光をみつけられた。
しずく―――――――
――――――――――――――
「君を――――。」




