064
帰り際にゆきこ先生のもとに寄った。
「………慧さん…っ!」
「……お、…わっ!? ……と」
ドアを開けたとたん、胸に飛び込んできたゆきこ先生に抱きついてきたのかと焦る。
というか、普通に紫苑にじゃれ付いてきただけだった。
紫苑を、手を伸ばしてきた先生に手渡す。満足そうに息を吐いたゆきこ先生は、紫苑と頬をくっつける―――――こうしていると、まるで親子に見えてきて不思議な気分だ。
「紫苑くん、大きくなりましたねえ。重いおもい」
「……………」
「いいですねえ、これだから子供は好きなんです」
「………」
「……慧、さん?」
われに返ると、紫苑を抱いたゆきこ先生が下から見上げるようにして僕を見ていた。
「どうしたんですか? なにか…」
不思議そうに首を傾げる先生に笑いかける。「何もありませんよ、ちょっとぼーっとしてただけです」
「………そう、ですか」
「………慧さん」
「はい?」
「あなたは、強いですね」
言葉を失った。僕より少しだけ瀬の低い先生はうつむいて、表情を僕に隠していてた。
だから、どんな顔をしているのかは、よくわからない。
だけどどうしてか、心の奥を、えぐられた、
そんな気がした。
僕は先生の姿から目をそらして、僕は眉をひそめる。考えるよりも先に、言葉が口から滑り落ちた。
「違いますよ」
「僕が強いわけじゃない。僕が、強くあろうとしたからじゃ、ない。
紫苑がいて、彼女がいて―――――――そして、ゆきこ先生がいて、いろんな人たちがいたから僕はこうやって息ができていた」
先生が紫苑に顔をうずめる。
細かくゆれるその肩が、僕を救ってくれたその一人の動揺を、映していた。
「先生、言ってくれましたよね。“頼れ”って。
あの言葉、ずっと、しまってあります。つらいとき、こうやってとりだして助けてもらっているんです――――――ねえ、先生」
先生ですよ。
「ふたりぼっちの世界に、あなたが無理やり押し入ってくれたおかげで、こんなにかわいい宝物だって来てくれた。世界だって“拡がった”。
だから、前向いていてくださいよ。そんなくらい顔しないでくださいよ。
僕たちが、大好きな先生なんですから、ね?」
先生が顔を上げた。
僕のセーターの下に手を入れて、そっと胸に手を当ててくれる。素肌で感じた先生の手は、ひんやりとしていて、でも、どこか安心できるような熱を孕んでいた。
「………この心臓はこれから、あなたを苦しめます。だけど、この心臓が動いてくれるおかげで、あなたは、紫苑くんとほら、息ができるんです」
そして先生はまた僕を見上げて、微笑う。
その笑顔と、記憶のそこに閉じ込めていたいつかの日の彼女がなぜか、ぶれて重なった。
「苦しくなったら来てください。心臓が痛んだら、私に言ってください――――――できたら、お兄ちゃんじゃなくて、私に」
「支えますよ」
「それこそずっと、ここにいます」
思い出した。
いつかの僕は、ふざけて雫にこういっていた。
ずっとここにいる。君がいなくなってしまっても、ここで待ってる。
同じようなことだなあ、とあきれると同時に、あの時彼女が浮かべていた涙のわけがわかりかけた。そうだ、待っている。待っていなくちゃ。
「ありがとうございます」
そう答えた声が、声にほとんどなっていなかった。涙にぬれて、情けない声になっていた。
そして僕は、まごうことなく人間になっていた。




